ブックカバーチャレンジ 『チェルノブイリの祈りー未来の物語』
福武財団の内田真一さんから先週回して頂いたブックカバーチャレンジ。
忙しさにかまけて全くできてませんでしたが、1冊、紹介させていただければと思います。
未曾有の事態を考えるために
ベラルーシのノンフィクション作家、スベトラーナ・アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り〜未来の物語』。
これは、チェルノブイリ原発事故から10年ほど過ぎた1990年代後半に、作家がチェルノブイリ周辺に住んでいた人たちや、関係者たちをインタビューして書いた本です。
なぜこの本について共有したいと思ったか。
新型コロナウイルスについて考えていた時に、ふとこの本にあった、こんな一節を思い出したからです。
「チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えてみたことがないからです。」
「なにかが起きた。でも私たちはそのことを考える方法も、よく似たできごとも、体験も持たない・・・(中略)・・・なにかを理解するためには、人は自分自身の枠から出なくてはなりません」(強調は筆者)
「誰もがチェルノブイリのことを忘れたがっています。最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、くちを閉ざしてしまったのです。」
(岩波現代文庫、P30ー32)
今回の新型コロナウイルスは、人類が経験している未曾有の事態の1つだと思います(スペイン風邪やペストより規模が大きく、全世界のほとんどの国がロックダウンを経験している、という意味においても)。
そうした時に、従来の思考法のまま考えていいのか。そんな疑念が浮かびました。
そして、この本について思い出しました。
(正確には、以前この本を手にした時は、最初だけ読んで放り出していました。仕事で疲れていた時期だったので、「こんな重い本、とても読んでられない」と思ったのです。なので、読み通したのは今回が初めてなのですが)
今の世界が当たり前ではない
僕は大学、大学院修士課程にかけて、ロシア文学・文化を研究していました。でも、修士を終了する時に感じていたのは深い失望でした。
「こんなものをいくら学んでも、結局、人生にも、仕事をすることにも、ちっとも役にたたないじゃないか。自分は、時間を無駄にした」
そんな思いを拭うことができず、それ以来、ほとんどロシア文学にふれる機会はありませんでした。
けれども、最近、実はにわかに「もう1度、ロシア文学を読み直したい」という気持ちが高まっています。
ロシアはかつて、ソビエト連邦という、今の日本を含む資本主義とは全く異なる社会体制が敷かれていた場所です。
そうした地域の文化について数年間かけて学ぶ中で、無意識のうちに感じるようになったのは、「今の世界のあり方が、絶対ではない」ということ。
お金を稼ぐことが是とされていることも、お金がなければ生きていけないと言われていることも、経済成長が絶対だと言われていることも、あくまで今の社会での話。
違う世界も、あり得る。
大学時代に社会主義の問題を学んだので、社会主義を擁護するつもりはありません。
ただ、知らずしらずのうちに、物事を多少なりとも相対化して見られる視座を得られたのは、ロシアについて学んだおかげだと、最近気づきました。
本当に僕たちはもとの世界に戻ってほしいのか
このゴールデンウィークはもう1冊、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』を読みました。
この本の末尾に、こんな問いが出てきます。
「コロナウイルスの『過ぎたあと』、そのうち復興が始まるだろう・・・(中略)・・・すべてが終わった時、本当に僕たちはまったく同じ世界を再現したいのだろうか」
(早川書房、P101ー109)
2008年のリーマン・ショック、2011年の東日本大震災に続く福島の第一原発の事故。
どちらも、自分の人生に大きな影響を与えたにも関わらず、僕は、己の中で総括をすることができないまま生きてきました。
今回のコロナも、きっと、そのうち終息するでしょう。そして、僕たちは皆、その後に続く社会の混乱(失業問題)などに向き合うことはあっても、コロナそのものが抱えている本質的な問題(森林破壊のような環境問題、グローバル化や都市の一極集中の問題など)はすぐに忘れていくでしょう。
それに対し、微力ながらでも、考えることを続けたい。
そんな意志表明を含めて、この本を共有させていただければと思います。