エレパレの感想
ニューヨークチャンネルに公開された映画『ザ・エレクトリカルパレーズ』を見た。
NSCにかつて存在したエリート集団。彼らは自分たちのことをエレパレを名付け、Tシャツを作り、歌まで作っていた。そんな謎の集団に迫るドキュメンタリー、もしくはモキュメンタリー映画だ。
https://www.youtube.com/watch?v=rS_-ILiycds&t=1806s
初めて見たのはもう3週間も前のこと。ニューヨークが好きでずっとyoutubeを見てたので、初めてニューラジオ(ニューヨークがyoutubeで毎週日曜に生配信しているラジオ番組)でエレパレの話が出たときから、そのあまりのイタさと、それを楽しそうに弄るニューヨークが面白くて、とても楽しみにしていた。
そして映画が公開される金曜日20時にスタンバイして見始めた。
にも関わらず、どうした3週間も経ってから感想を書くかというと、感情がまとまらなかったからだ。というか未だにまとまっていないので、noteに書くことでまとまるんじゃないかと期待している。
当初は、エレパレというものすごくイタい集団を、イタいことをいじらせたら天下一品のニューヨークがいじり倒すという内容だと想定していた、と言うか期待していた。映画の構成はエレパレではなかった人たちの語りから始まる。そして想像通り、エレパレを外から眺めていた同期の芸人たちによって語られるエレパレはドイタそのもので、そこで集めた材料を持ってエレパレをいじりにいく展開を期待させた。
だけどその後、エレパレの1組目として登場した侍スライスに、その期待を打ち砕かれる。侍スライスは高校も行っていなかった自分たちにとってエレパレは「サークル活動みたいな感じで輝いていて、キラキラした思い出だった」と言う。そしてNSC卒業後先輩たちにけちょんけちょんにいじられた時のことを「すごい嫌な気持ちになった。俺らあかんとこしてたんかな」と回想する。侍スライスの絶妙にいい人な見た目やほぼBKBと同じエレパレポーズを一生懸命説明する姿も相まって、今自分が願っている展開は俺のエゴなのではないかとひっくり返された。
そこからエレパレの中でもいろんな立ち位置のメンバーの回想が続く。エレパレメンバーに誘われた時に純粋に嬉しかったと語るきょん、エレパレに無理やり入れられながらもエレパレを馬鹿にしていたゲオルギー吉川、青春を楽しんでいたワラバランス宮崎やわきこ。そして映画はラフレクラン西村の「みんなエレパレだよ」と言うセリフに集約していく。
RHYMESTER宇多丸が映画批評で「青春というのは可能性が開いている状態のこと」とよく言っている。青春の定義としてとても好きなのだけど、エレパレはまさに「可能性が開いている状態」のことだと思う。NSCに入学し、この先に広がる大きな可能性に夢を見ていた集団。そしてそれを妬んだり馬鹿にしていたのも同時に可能性が開いていたからこそなんだろう。ニューヨークは「芸人なんてずっと青春してるから」と言う、この定義に照らせばしっくりくる。40歳からでも売れることができるから、いつまでも青春なんだろう。
脱線するが、BKBと森田と屋敷の仲良しエピソードがとても好きだ。全くBLの趣味などないが、1つ1つのエピソードにどの漫画にも書かれていない青春を感じるからだ。例えば、さらば青春の光がKOCの決勝に出る前日に、「もう明日で売れてもうて遊ばれへんから」とBKBの家に集まって朝まで喋る、とか。可能性の広がりの中での友情に青春を感じている。水曜日のダウンタウンが楽しみだ。
で、エレパレに戻るけれど、自分は今までの人生ではほとんどがエレパレを外から馬鹿にしている奴だった。そして今もその最中にいるから、自分のこの感情をニューヨークと監督の奥田さんがエレパレをいじって昇華させてくれることを勝手に期待した。だけどニューヨークと奥田さんはそんな簡単なことはしなかった。全部の立ち位置を平等に描くことで、結局みんな無限に広がっている可能性への対処に右往左往しているだけなのだと、馬鹿にしている奴も中心ではしゃいでいる奴も同じなのだと思った。
内定者ライングループで我が天下面で毎日飲み会の様子を投稿する奴を好きにはなれないけど、まあ同じかとゆっくり許していきたい。