日記 知恵と言葉、及び苦くて暖かい平成のメモリー
しばらく(2日くらい)お絵描きや外出を休んで、note記事を書こうと思った。ので、書く。
カフェモカを初めて飲んだ。コーヒーの苦味にチョコレートの甘さが入っているな、という味。割とイメージそのままの味わいだった。しかしながらそれを飲んだお店の設備が結構ちゃっちい感じだったので、専門店のカフェモカも一度飲んでみたい。
ドオーのぬいぐるみを撫でながらこの文章を書いている。ドオーを食べたとき、カフェモカみたいな味がするといいのになと思った。
プロントのコラボで販売されているドオーのチョコケーキのことを、いまだに思い返している。プロントのポケモンコラボメニュー、9月16日までコラボやってるらしいので、ポケモン好きな人はぜひ。
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「シャーマン 霊的世界の探究者」という本の写真を眺めている。さまざまな国のシャーマンや呪医の衣装や、儀式に使う道具、実際に儀式を行っている写真などがたくさん載っている。解説文も書かれているが、それは、まあ、元気がある時に読む。この本には載っていないが、読んでいる時に“ヨーロッパのなまはげ”と言われている「ワイルドマン」というものを思い出した。ワイルドマンとは「獣人」とも訳されるように、ヨーロッパの祝祭で、動物の毛皮や角を頭に被ったり、動物を模した仮装をする人々だ。写真集もあるようなのでそのうち買いたい。
それにしても積読が多い。「世界で一番美しいエンジン図鑑」という大型の本や、古代エジプトの歴史と文化についてまとめた本もいくつか積んでいる。小説は時間をかけて物語を理解しなければならないが、大型本やムック本、写真集などは時々ペラペラめくって画を見るだけでも面白い。
自分の知らない文化、知識、概念、物語。そういったものを知るのは、とても楽しい。
紙の本は知識欲が満たされるだけでなく、紙というアナログな媒体で見ているから楽しいという部分もあるのかも。本の重み、紙の手触りや匂い、エアコンの涼しい風、そして自分で淹れた美味しいカフェラテ。時々ぬいぐるみを撫でる。そういった感覚は、液晶を眺めるだけでは得られない。
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インターネットにつながった液晶を見ているときはどうしても
「◯◯ 嫌い なぜ(これを検索した私は別にその作品が嫌いではない)」
「◯◯の反応集(どこの誰の反応とは書いてない)」
「◯◯ 作者 自殺理由(実際は今でもバリバリ元気に活動している)」
「◯◯の作者が嘘を吐いている真の理由15選!!初回無料!!ハッシュタグを付けてみんなで結託してこの本を燃やそう!!(作者に後ろめたいことは何もない)」
みたいな、最悪な情報にワンタップで繋がってしまう。
無視できればそれが一番いいんだけど、「その気になって調べた時点でこちらの負け」というシステムが最悪すぎる。商品のレビューで褒めまくってるいいコメントよりこっぴどい悪口が頭に残っちゃうとか、あるよね。しかし、サイトや商品によっては良いコメントも自作自演の可能性がある。インターネットにおいては、純粋な善意や正義の心こそ、人を釣って食うのに最適な餌だから。
数万人もの人間が、何も発言せず幽霊としてこっそり見ているか、1件か2件の褒め言葉を書いている。のに、たった一人の狂人が2000件の悪口を書き込むことで、大衆から「とてもたくさんの人に嫌われている」と思われる。インターネット、ひどい空間だ。
みんなでインターネットをやめて、紙の本を読みましょう。Amazonで見るのではなく、本屋さんに行きましょう。本棚がいっぱいあって面白いから。本を買うお金がないなら、図書館に行けばいい。好きな本、気になる本を好きなだけ読めるし、司書さんに話を聞けばいい本を探してくれる。
紙の本はポップアップ広告も出ないし、ブックマークもできるし、オフラインでもアクセスできる。情報が正しいかどうか調べるのに時間はかかるけど、本として刷るという手間がない分、インターネットの情報の方が信頼度は低いだろう。
おいしいお菓子と飲み物を口にして、紙の本を読み、時々日記を書いて、ぬいぐるみを撫でる。そうやって、生きていたい。
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アイスカフェラテを淹れることにハマっており、1週間平均のカフェイン濃度がかなり上がっていて危険。自分で豆を選び、ミルで挽いて粉にして、お湯を沸かしてドリップする。コップに氷を詰めまくった状態でドリップするとコーヒーが急速に冷やされ、ラテにするとめっちゃ美味いというやり方を知ってからコーヒーを飲む頻度がかなり上がってしまった。
スターバックスの豆で淹れるとめっちゃ美味いのが悪い。これはスターバックスの陰謀だ。スターバックスのメニューと違って、家で淹れると好きな濃さにカスタムできてしまう。そしてスターバックスのキャラメルポップコーンがめっちゃ相性良くて美味い。スターバックスの陰謀だ。おしどりミルクケーキもうまい。何かの陰謀だ。
そろそろデカフェの美味しい豆を探さないといけない。この、めちゃウマ水出しコーヒーを消費したらの話だけどね。
百均で買ったパックに挽いた粉を入れて、麦茶のような感覚で水を入れたポットに漬ける。そして冷蔵庫に25時間くらい置いておくと、もう冷えっ冷えのめちゃウマ水出しコーヒーが完成している。既に冷えているのでアイスカフェラテに最適なのだ。保温マグに氷と一緒に入れるとずっと冷たくておいしい。
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昔から、症状が重い自閉症の子供と喋ったり、一緒に遊ぶ機会がけっこう多かったので、世間の人々が「自閉症」「発達障害」という言葉を軽いノリで使うことを少し気にしている。
基本的に彼ら自身は純粋無垢で、ぼんやりのんびり生きている。けど、彼らを支援する行政や、遊びに付き合ったり勉強を教える大人たちの苦労はかなり重く、負担がすごい。「理解」なんて言葉は軽々しく言えるけれど、実際彼らとの付き合いは、ただの遊びだけでも大変だ。子供だって大変なのに、支援する大人の立場になってしまうと、その心労はとんでもないことになるだろう。
そして純粋な彼らは、大人たちの疲労や負のエネルギーをすぐ感じ取ってしまう。これで大人を気遣うあまり自分自身の苦しさに蓋をする子供もいれば、大人の優しさを、逆に自分への攻撃だと思って暴れてしまう子もいる。
また、純粋だからこそ、健康な人間から食らう色んな形の暴力を理解できず、傷を負ったまま笑っていることもある。傷が痛む理由がわからず、パニック発作を起こしたり、大人には理解し難いタイミングで涙を流してしまうこともある。自分が攻撃される理由がわからない。自分が攻撃されているのかもわからない。自分が怪我をしている理由がわからない。自分の身体や心が痛い理由がわからない。なぜ自分は今、ストレスを感じているのかわからない。「わからない」という感覚が怖くて、パニックになってしまうこともあるだろう。
色々言っているが、私自身にもそういう側面というか発達障害(知能に問題はない)がある。
症状が重たい彼らと、知能に問題はないと診断を受けていた当時の私は、施設で大人たちからは同じような扱いを受けていた。時代ですね。私は子供ながら、私は彼らとは違うんだ、彼らと私を比較するな、と思っていた。何も知らない子供だからこそ、かもしれないが。
でも、子供の私が彼らと自分を同一視されるのを嫌っていたのは、私の人格にも彼らと同じ側面というか、同じ考え方をする部分があったから、かもしれない。自分と似ているからこそ、自分自身の嫌な部分を思い出して辛い、みたいな感覚だ。彼らは、他者に自分の心根を伝えるための言葉を知らなかった。子供の頃の私もそうだった。
なんか一緒にされるといやだなあ、という身も蓋もないことを色々言ったが、無駄にコミュニケーションの心理戦を仕掛ける必要もない彼らと遊ぶのはとても楽しかった。未だ、いい思い出として心に残っている。動体視力がものすごい子と一緒にチョウチョを捕まえたとか、(聴覚過敏の私が落ち着けるほど)静かな部屋で一緒にお昼寝したとか。学校でゲーム大会を開いて、私がイベントスタッフになったとか。Wiiのマリオカートがものすごく強いやつがいて、いつもボロ負けしたとか。無駄な言葉のいらない純粋な世界は、ちょっと心が暖まった。
前の記事で書いた「しゃがんで話す」という考えも、この辺りの記憶から来ているのかもしれない。
まあ、なんというか。こういう過去があったからこそ、大人になった今では、自分の気持ちを「言葉」に変換できることが何よりもうれしいし、やっていて楽しい。それに、こうやって書き連ねた言葉が誰かに少しだけでも伝わっていて、時々「共感した!」というメッセージが届くことも、ちょっとうれしい。
補足:今の話は、個人が過去に経験したことを書いただけで実際の医療とか専門知識とかの話は特に書いてないです。ここに書いてあるのは全て平成の思い出話なので、今の支援は今調べましょう。マジで。頼む。
なんか長くなっちゃったな、終わります。
読んでくれてありがとう。またね。
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