言葉にしてみたんだけど

タイトルで韻踏むの飽きたのでやめることにする。なんか意外となんにも決めなくても大丈夫な気がしてきた。

明日多分仕事でつらいことが起こる。つらいことが起こる予定なのだ。起こらないかもしれないけど、起こらないとそれはそれで困るので、というかだいぶ不味いのでどちらかというと起こってほしい。でも多分私にとってはつらいことだろうなと思う。

つらいことがだいたい起こる仕事に就いているので仕方のないことなんだけど、でもつらいことはつらい。それでもだいぶ前よりもつらさが薄れたような気がする。それも正直いいのか悪いのか分からない。仕事の話を同職種の友人にしたら悄然とした雰囲気になってしまったことがある。つらいことがよく起きる仕事なのだ。でも何だろう、平気になったわけではないけれど、大きく自分が反応しなくなったなと思う。いいことなのか悪いことなのか分からない。仕事はしやすくなったけれど、普通の感覚を失うことは悪いことだと思う。つらいことに慣れたって、傷が浅くなるわけじゃないんだ。手当をするなら傷の深さは見誤ってはいけない。

明日つらいことが起きる予定である。っていうことを言葉にしてみた。普段はしない。あんまりしない。つらいことがあった、なら声に出すけど「つらい予定」はもしかしたらつらくないかもしれないし、先入観を切り捨てるのは仕事に必要なことだから、つらい予定を言葉にして「つらい」が私の中にたまってしまうことを避けたいからだ。でも多分明日の予定は本当に起きたらつらいのだ。だから言葉にしてみた。

やっぱりつらい感覚が自分の中にたまった感じはする。なんかあんまりよくなかったなと思う。多分、本当は先につらさをクリアにして置きたかったんだけど、結局「予定」だから、まだ無いことだからクリアにならなかった、ってのがだめだったんだと思う。明日の予定は特に、無くなればいいって思えない、絶対予定通りになってほしい性質のものだからだと思う。無いと困るのだ。でも多分つらい。できれば私以外の人にやってほしい。

私以外の人なんていないので、私なんだけど。それは信頼されてるってことだと思うし、周りのサポートを得てだけど受けきれないものではないと自分でも思うから受けるのだけど、でもつらいことはつらいのだ。何回言うんだろう。

明日仕事が終わったら、プリン買って帰って、レストランがテイクアウトで出してるお家で作るボロネーゼパスタ作ろうと思う。2分ゆでてソースあっためたら完成なんだけど、思考が「おいしい…」に支配されるぐらいおいしい。外出自粛が終わっても売ってくれないかなって思ってる。それでミントのバスソルト入れてお風呂に入ろう。自分の身は自分で守るしかないのだ。結局のところはそうなのだ。

問題は早く帰れるかっていうところにあるんだけど、時間が遅くなっても目をつぶろうと思う。大丈夫。もう太ってる。感情の起伏でカロリーが消費出来たら私めちゃくちゃ痩せるんだけどな。

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