コラムと言えない、ブログ
こんなにも時間があって、こんなにもどこへも行けなくて、こんなにも人と会わない日が続くなんて、これから生きてるうちに、またとあるんだろうか?
と思ったら、やってみたかったことをやってみることに関しては、最高のチャンスのような気もしてきた。こんなことを書いていて、恥ずかしいなぁなんて思うほど、いつもみたいに人とも会わないし、他者との自分を気にしなくても良い。だから今こそ、ほんのりやってみたかったブログ的なものを、書いてみようと思う。
「人より努力しなくても少しだけできることは、才能だ。ずっと続けていきなさい。」
朝ドラの森山直太朗の言葉にコーヒーを飲む手がふっと止まった。
思えば、小さい頃から私が人より努力しなくても抜きん出てできたことや、大人からも褒められたことは、文章を書くこと。これに尽きる。
絵を描くことや、音楽だって、人よりできていたような気はするけど、ジャンルや種類も色々あるし、小さい頃のこれらに関しては良し悪しが分かりづらい。芸術って、そういうものだと思うし。小さい子は、皆芸術家で表現者だと思う。
ちなみに小さい頃、初めて持った夢は漫画家で、その次になりたかった職業は小説家だ。
後者は今でも、シンプルに恥ずかしい。
多分、文章を発信する、ということは、シンプルに、恥ずかしいことなんだと思う。
なぜなら、直球で伝わってしまうから、理解されてしまうから。
伝えやすいからこそ、恥ずかしいし、伝えやすいからこそ、勘違いされやすい。そして、簡単に人間性まで垣間見えてしまう。それが文章、言葉。
ただ、こんな形でも、文章を書くことになんら意味が出ようものなら、書いてみたいし、書いてみようと思う。
いつかブログじゃなくて、コラム書いたんだよ〜なんて、言えるようになれたらいいな。大人になると、同じ片仮名3文字でも全然違うんだもの。恥ずかしいものから、かっこいいものに変わるんだからね。
そんなわけで、本題。
「現代社会で生きていながら、表現者でいることに、恥ずかしさはつきものだ」という話。
私は、17歳の頃から、音楽を作って、人前で歌を歌っている。
普段はセレクトショップの店員で、職種としてはアパレル業、ちなみにその前はホテルのフロント業。どちらも接客業で、音楽とは全くかけ離れた仕事をしている。正社員だから、フルタイムで働いて、休みは不定期、月7日。
当然、ギターを弾いて歌っているより、現代社会で、普通に働いて、生活している時間の方が長い。社会の中にいる時間の方が、うんと長い。
だけど私は、社会の中にいるのが基本的に苦手だ。人とお話しするのは大好きだけど、社会という括りの中にいると、他者から見られている自分と、自己の中にいる自分を、調整するのに、すごく疲れてしまう。勿論、社会の中にいることで、得られるものが多いことも、承知の上で。
自分は自分、タイプの人もかっこいいし、憧れる。反対に、周りの人に気を遣えて、自分よりも他人を優先できる人も、尊敬する。どちらにも良い部分も悪い部分もあるけど、私は良くも悪くも、どちらにも属せない。変に気を遣ってしまうし、変に自分を捨てられない。
だけど、なぜか詩を書いて、音を乗せて、それを歌う、音楽をやっている。
音楽をしている時だけは、自分が自分でいられる気がするし、自分でいることを許されている気がする。だから、音楽は私にとって、かけがえのない存在だし、人生の救世主だと、思っている。
それでも、社会に出た時、自分が音楽をやっている、ということを伝えるのを、恥ずかしく思う瞬間は、必ずある。
この感情は、現代社会で生きながら、片手間でも本気で芸術を嗜んだことがある人なら、わかる人も多いのではないかと思う。
まず、どう思われるのか...なんていう不安やドキドキが一番最初にでてくる。
日本人は一般的な社会に属していながら、目立つことをしている人を後ろ指差す習性があるし、表現をする人を、少し一目置いて見たりする。人に合わせたり、協調性を大切にする性質があるから。
一転してそれが仕事になった時、突然見る目を変えてきたりもする。そこがちょっと、ずるいところ。
仕事を真面目にする人や仕事で成功してる人を、素晴らしいと思う習性がある気がするし、仕事で成功させることが、社会的地位の高さにも繋がっている。芸術だって、仕事になって、初めて認められるし、それがもちろん一番わかりやすいということも理解はできる。
ただ、日本人は、趣味か仕事、その二つに、やたら分けたがる。
まぁ、確かにそれが一番わかりやすいんだけどね。
勿体無いな、とも思う。
普通か、普通じゃないか、やたら分けたがる。
ただそんな日本の一般社会に属している身として、出来るだけうまく生きていきたいのも正直な気持ちだし、そう思うと、自分が音楽をやっている、という部分を、別に見せなくたっていいんじゃないかとすら思えてくる。
だって恥ずかしいもの。
認められない、貶されるかもしれない対象のものしかまだ作れないことだって、悔しい。
「恥ずかしいと思うことこそが恥ずかしくないのか! 」
なんて熱い人に一喝されそうな気もするけど、人間だしね、正直に言います、全力でやってるけど、やってるからこそ、恥ずかしいよ。今だってずっと。本気でやっていることを、隠したくなることだってあるよ。趣味ですよ〜、なんて言っちゃう時もあるよ。他人にどうこう言われたくもないしね。自分の中に留めておけば大切なものを傷つけられることはないしね。
だから、少なくとも現代社会でいう成功を残していない人が、別の社会に属しながらも、表現者でいることに、恥ずかしさはつきものなのだ。
ただ、だからこそ、恥ずかしいと思うことに、恥ずかしいと思わなくたって、別にいい。
とすら、私は思う。
だって、社会を意識するようになった大人が、一ミリも恥ずかしいと思わずに自分を表現できるなんて、そんな人ほとんどいない。
だけどここからが、今日の本題の本題。
遠回りしてしまいごめんなさいね。
自分が表現者でいることを、自分は受け入れてあげてほしいし、許してあげてほしいし、認めてあげてほしい。
やっぱり、誰よりも自分で自分を信じてる人の音楽の方が、ずっと美しいなと、最近は思う。
恥ずかしいことができちゃう人、言えちゃう人が、一番かっこいい。縛りのない世界、個性を認める、芸術世界でとっても大切なこと。
そういう人や価値観が、日本の現代社会で、もっと増えたらいいし、もっと理解されたらいいなと、ずっと思っている。
もしそういう世の中になったら、皆がもっと自分を認めやすくなる。他者に認められて初めて自分でも認めることができた、という人も多いだろうし、現に私がそうだった。
まぁまだそんな世の中にはなりそうにもないから、自分が変わる方がずっと早いのだけどね。
恥ずかしさを受け入れられた時、人はきっと成長するんだろうな、と思うし
そのくくりがない中で表現をするものの可能性は、多分どこまでも無限大なんだろうなと思う。
だから今、私にとって一番恥ずかしいものである、「文章」を、ここに書いてみたりもしている。
自分を変えられるのは、自分しかいないからね。
「人より努力しなくても少しだけできることは、才能だ。ずっと続けていきなさい。」
なんて、テレビの中の言葉に、のせられて。
2020.5.2
今日は2020年初の夏日
夏の夜がちょっとフライングしてきてくれて、嬉しい。
3時間くらい散歩しながら、夕暮れ時に、七尾旅人さんの「湘南が遠くなっていく」という曲を聴いた、きもちよかくて、涙が出そうだった。