葡萄の香りは車内にて
子供から大人になるというのは
"気づいたら" "いつからか" がほとんどだ。
もちろん大まかな意味でもだが、小さなこと一つ一つが全てそうだ。例えば、気づいたらピーマンが食べられるようになっていたとか、辛いものが美味しく感じるようになったとか。
いつからか目の下が黒ずみだしたとか、コンビニのご飯にワクワクしなくなるとか、突然の恋に落ちなくなるとか。
その中の一つとして私は
乗り物酔いをしなくなった。がある。
幼少期の私は、幼稚園のコーヒーカップで気絶をし、新幹線ですら吐くという、稀に見るほどの三半規管の弱さっぷりを見せる子供だった。
一番苦手な乗り物はバス。市営バスなんかは一瞬匂いを嗅いだだけで吐き気を催すほどだったし、遠足や校外学習は、もはや地獄が待ち受けている恐怖の試練である。
乗り物に乗る前は塩か梅のおにぎり、飲み物はポカリスエット、お菓子はラムネ、酔い止めの薬は紫色の葡萄の味がするちょっと高いやつ。
これ以外を口にすると吐き気を催す可能性が大いにあるので、乗り物を乗るときはそのセットが、まるでお守りのようだった。
そんな私に、ある事件が起きる。
乗り物酔いの一番最後にして最悪な記憶、中学一年生の校外学習のときに、今でも忘れられない"ソレ'"は起こった。
中学一年生のはじめての校外学習。それは私の地元宮城県仙台市では東北の大震災が起こったわずか1ヶ月後の2011年4月。道路はまだボコボコバリバリの壊滅状態。
その道を大型バスで1時間ほどかけ、隣の山形県にある山寺まで走るという、三半規管弱い勢からしたら特大ブーイングな計画を、学校側はしていたというのだ。
そんなことも露知らず、バスに乗り、点呼が終わり、発車の合図。まだ葡萄の香りがほんのり鼻に残っているころ、すでに私の三半規管は異変を感じはじめていた。
______これは、なにかのアトラクションか?
お尻は跳ね、メトロノームかのように横揺れを繰り返す人間たち。信じられない。なんなんだこれは。天下のUSJでもこんなもの見たことがない。ビニール袋を要求するクラスメイトが続出する。今まで車酔いをする生徒なんぞ1クラスに1人か2人だったし、消臭機能チャック付きハイテクエチケット袋を持っているのも私1人だった。そんなことを差し置いては、3人、4人、5人........続々とビニール袋コールが始まる車内。もうほとんどが錯乱状態だった。
もちろん私といえば、完全にオワリの境地へきていた。普段乗り物酔いをしない人たちがそれほど酔いを訴えているのだから、私のような人間からしたらそこはもう、地獄そのものだった。
胃の中のものを全てハイテクエチケット袋に幾度となく戻し、もはや胃液しか出ない状態にまできていても吐き気、からの胃液を出すしかないの繰り返し。容態はもはや大病のソレだった。
"どこでもドアがあったら...."
生きていれば一度くらいみんな思ったことがあるであろうこの願いを、この時ばかりは誰よりも強く切実に訴えたかったのは私だったと、断言して言える。
やっとの思いで山寺につくも、胃の中は空っぽ。口の中は何度洗っても酸っぱいまま。どうせ帰りに吐くと分かっていても空腹は車酔いを悪化させるので嫌でも食べなくてはならない。お母さん、せっかくお弁当作ってくれたのに、ゴメン。
帰りのバスも同様だった。やさしい友達が、大丈夫?と少しよくなってきたころにグミを渡してきた。捨てるわけにもいかない手の中のレモン味のざらざらつきのグミ。おそるおそる食べた瞬間、吐いた。
友達、ゴメン。
結局、そのバスで吐いたクラスメイトの数は私を合わせ7人。吐くまではいかなかったが酔いを訴えていた子を合わせると倍にもなった。
今でも忘れられないこんな最悪な思い出を最後に、私の車酔いは少しずつ良くなりはじめ、高校時代にはほとんど気にならないくらいまで落ち着いた。
今でもお守りのようにポカリスエットとラムネを選ぶことは多いけど、葡萄味の酔い止めは卒業したし、あんなに恐怖だったバスも今では眠れるくらいに快適だ。
いつからか、気づいたら、車にも、おかしなことだらけの世の中にも、私の体は適合してしまったのかもしれないと、ふと寂しくなるときもある。
それでもあの頃、ずっと、いつでも必ず横で背中をさすってくれていた母の愛は、今でも体が覚えている。
いつからか、気づいたら、変わってしまうことだらけでも、そういう小さな変わらないあたたかさは、ずっと体に染み付いている。それは葡萄の味だったり、ラムネの味だったり、ポカリスエットの味だったり。あるとき触れては思い出して、強くなれる。
もうどこにいたって我を保てる今でも、大人になった私でも、乗り物に乗る時にそれらを選んでしまうの
その味や匂いが、私にとって別の意味での"お守り"になっているからなのかもしれない。
そんなことを思いながら、東京行きのバスに揺られ、これを書いている。2022年、8月18日。時刻は9時23分。天気は雨。
バス付属の卓上には、ポカリスエットと、ラムネを置いて。