été85
久しぶりにnoteにログインをしたら、プロフィールが「高3」だった。詐欺だけど、面白いので時を止めておこうと思う。誰にも見られないしね。
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大1の夏休み最後の日は、映画「summer of 85」をみた。天晴れ、フランソワ・オゾン、私を勝手に南フランスに連れて行って、その上心を掴んで、掴んだまま離してくれない。
私は今、平凡に幸せで、絶望を知らない。誰の死も経験していない。死の観念に惹かれることも恐れることも、ない。
それなのに「失う」ということに強い共感・思い入れができたのは、彼らの喪失感が痛々しいほどダイレクトに伝わる、演出の賜物だと感じた。
主人公は、ダヴィドは死んだ、というどうしようもない事実と焦燥感に駆られて、誰にも理解してもらえない行動に出る。理解してもらえないということを、理解していた。だから小説を書き始めた。
85年の2人は、青春真っ只中だったのだ。若いからじゃない、感情にあまりに正直だから、見ていて痛々しいほど切なかった。
それで、理解した。ああ、青春はこれだから”美しいもの”の代名詞として変わることなく扱われるのだと。青春は有限だ。二人の場合その有限性があまりに唐突で残酷だったというだけで、誰にとっても青春は終わるものであり、そういう意味で二人の生きた85年の夏は、誰にとっても青春のメタファーなのだ。
女装して死体安置所へ行くシーン、よかった。女装すれば安置所の管理人の人も、同情して死体を見せてくれるだろうとか、なんとも恋に生きるフランス人っぽい思考回路だとも思った笑
ケイトがアレクシに恋してしまう描写は、うーん、わかんないけど、女は弱ってる男に同情してすぐ好きになっちゃうっていう皮肉にも見えた。
それに、埋葬、墓、天国地獄、、、全部生きている人のためのものだと思っちゃった。墓の上で踊ったって、ダヴィドは喜ぶだけなのにね。
今も、アレクシとダヴィドの幸せを願ってしまう。
同性の愛であることは、今回のロマンスにおいては全く重要じゃなかった(と私は思う)。
ああ、原作エイダン・チェンバーズの小説「おれの墓で踊れ」も、夏に読みたかったなあ、
諦めて秋が終わる前に読もうと思う。