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50肩その後

激痛期間を経て、4カ月程経過…
3か月ほど経った先月、深い気づきや癒しがやって来て、
ぐっと痛みが軽減し、
痛くて怖くて全く動かせなくなっていた腕が、元の状態の7割ほど動くようになった。

そこから1か月、痛みや症状は行きつ戻りつしながら、
ゆらゆらとしている。
ぐっと良くなったように感じ、気持ちがぱっと晴れやかになるときもあれば、
はたまた揺り戻しのように、ぐっと痛みが増して感じられるときもあり、
そんな時は、気持ちも連動するように揺り戻して、なんだかぐっとしんどく感じられたりすることもある。

特に、夜間痛と呼ばれる痛みで深夜に目が覚めるとき、
まだ?いつまで?と思ったり、
何をどうすればいいのだろうと途方もない気持ちになることも…
だけれど、何をどうするでもない、
どうにもしようのないこれらに丸ごとサレンダーするしかない。

というより、
サレンダーする、明け渡すなどという選択をしようという気力すらなくなるというか、色んな意味で諦めの境地のような感覚に…

それでもそれは、やさぐれた感じとは少し違っていて、
もちろんある時期、やさぐれも感じ、それを通り過ぎて、
分からないものを分からなくていいと、
それまでぎゅっと握りしめていた何かから手を放す感覚に近い。

こういう痛みをダイレクトに感じる体験をしていると、
痛みそのものは自分でも、はたまた苦しみでもないことがよく分かるという醍醐味がある。

痛みをどう感じるのか、どう捉えているのか、
その心もちみたいなところで、
辛さだったり、或いは喜びだったりが湧いてくる。
それに翻弄されるのが総じて苦しみで、
その苦しみと自分が、あたかも一体化しているように感じられるとき、
大切なものを見失っているのかもしれない。

痛みは文字通り痛いけれど、
痛みがあることで苦しみの正体に気づき、
大切なもの、本当の何かに導かれるような不思議がある。
漫然と生きていると、とても気づきようのないものに
出逢わせてくれる瞬間がある。



痛みの渦中を体験している中で、
私を取り巻く世界、この世界での生活の流れもずいぶん変化しつつ、
それが新しい習慣になってきている。

朝夕、自然を感じながら歩く習慣や、痛みがあることでゆっくりと身体を感じながら動く習慣、身体が欲する食べ物や食べ方、また言葉として発したいものなどを丁寧に感じる習慣が生まれ、少しずつ定着しつつあるのを感じている。

目に見える領域でも分かるようなシフトチェンジの狭間を、つぶさに感じられる。

痛みという補助輪が外れても、それらの習慣が自然な所作となり、この世界の美しさとの共振そのものとなりますように。










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