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Seeing is Believing・改 〜17歳が見たアフリカ〜南ア留学記 Vol.1 一文字違いの運命のイタズラ。

Seeing is Believing・改 〜17歳が見たアフリカ〜 南ア留学記

はじめに

8月28日〜30日に横浜で開催される第7回アフリカ開発会議(TICAD7)。一方、まだまだ日本の多数の人にとって、アフリカってまだまだ遠い場所だと思います。

しばらく、アフリカと離れていたのですが、最近仕事で関わるかもしれない機会ができそうなので、もっと身近に感じられるアフリカを、TICAD7の開催カウントダウンに合わせて、毎日発信できたらなと思います。

もう、19年も前、17歳の私は、南アフリカに留学していました。だいぶ時間が経っても、今でも記憶は結構鮮明だったりします。それくらい、17歳でアフリカに行ったことは、大きなインパクトがありました。

当時ブログとかSNSってまだそんなにはやっていなくて、留学記を記録に残すということができていなかった。

そんなことを思いながら、ふと、大学留学時代、Washington D.Cにいた頃、開発の勉強会で知り合った杉原さんという方に、「地球に乾杯NGO」というサイトで、その経験を書いてみないかということで、4回だけ寄稿させていただいたことを思い出した。

周りの方は開発のプロや現場で活躍する方々でちょっと恐縮してしまいましたが…文章が拙くて、内容が薄くて本当に恥ずかしいですが、そこには、何かしたいという想いやエネルギーだけは溢れている気がしました。

見比べてみると、面白いかも・・・笑
http://e-ngo.cocolog-nifty.com/ngocolumn/2004/03/seeing-is-belie.html

4回ほど書いて、途中で終わっていましたが、その時のタイトルがSeeing is Believingだったので、「改」という形で、勝手に南アフリカ留学記を復活させます 笑

新たに今の自分の目線も入れつつ、17歳だった頃の宝物の記憶のピースを紐解きながら。

———
Vol.1   1文字違いの運命のイタズラ。

死ぬ時になって、自分の生きてきた人生絵巻が、本になるとしたら、どこから始めるか?

多分、私は、南アフリカに行った時のことから書くだろう。

高校時代に1年間南アフリカに留学したことがある。

17歳で初海外で南アフリカなんて、今思えば、結構ハードだよね。
でも、それ以上に、人生が180度変わるくらい、その経験は宝物になった。

初対面の人に、自己紹介する時に、なんでまた南アフリカに留学したの?
と必ずといっていいほど、聞かれる。人生のネタとしては、非常にオイシイ。

でも、そんなに野心や大志を持って行ったとか、期待に答えるストーリーはなくて、

単純に、流れとノリで(笑)

という、受け身なきっかけだった訳です。

正直、どこでも良かったのかもしれない。
井の中の外に飛び出すことができたのなら…

でも、心の憶測で、どこかワクワクしていた。
交換留学のプログラムだったので、派遣されている国からきたら、その国に次年度派遣するシステム。半年ほどのオリエンテーション期間を経て、最終的に適性をみて渡航先は決定された。

さて、私の適性はなんだったのかは、今も謎。
僻地でもサバイバルできそうだったのだろうか。

「ん?アメリカじゃなくて、『フ』?えっ、アフリカ?」

一瞬耳を疑った。

確かに、留学の渡航先の第一希望は、「ア『メ』リカ」と書いた。
確かに、私に調整結果を伝えた人は、「ア『フ』リカ」と言った。

そう、南アフリカ共和国。聞き違いではなかった。

いやいや、ちょっと待ってよ。と思った(笑)
アフリカなんて、大丈夫なの?危なくない?

当時、留学が決まった16歳の私は、
アフリカって、どんなところか想像もできなかった。

「半裸で過ごさなきゃいけないからね」
南アからの留学生にジョークを言われて半分本気にするくらい、アフリカのことなんて知らなかった。

危ない場所?

紛争?

貧困?

マサイ族?

何語話すんだろう?

アフリカってまだ1つのくくりでしかない、遠い異国の地。

南アフリカって南部のアフリカって地域じゃなくて、国だったんだというレベル。
アフリカ界隈や外交、開発関係、商社などで関わりのある人以外、多くの日本人はそんな感覚だと思う。

当時、宮城にきていた南アフリカの留学生と仲良くなったことも第三希望にスペースがあまってなんとなく国名を書いてしまったことも、
いま思い返せば、全てがプログラムされていた運命のよう。

そんなわけで、田舎育ち17歳の女の子は、
アメリカと、アフリカという、1文字違いの運命のイタズラで、いきなり大海に、飛び出すことになったのでした。

そもそもなぜ留学かしたかったのか。
世界に飛び出したかったのか。

遡れば、4、5歳のこと。

親の仕事はある会社の研修施設の運営だったので、国内外からの研修で訪れる人の、宿泊場所になっていた。

親も英語ができるわけではないので、食事の準備とかを手伝いながら、怖いもの見たさで、勇気を出して、はなしかけてみた。

My name is...は、マヨネーズイズで通じると本気で思っていた。

もちろん、通じるはずはないのだが、話しかけた外国人の人はニッコリと笑い返しくれて、何かが通じたんだろうと嬉しかったことを覚えている。

最初に記憶のある、異文化コミュニケーション体験。

中学生になり、英語が義務教育に加わり、英語を通じて、新しいことを知ったり、世界で起こっていることを知ることが単純に楽しかった。

たまたま部活の先生が英語の先生で、
英語が話せたら、世界中の人とお話ができるんだ!ミーハー精神で、英語がペラペラはなせたらかっこいいなって思っていた。

私の英語学習のモチベーションの源泉は、結局ここだ・・笑

実は、15歳の頃の私は、日本社会に疲れていた。というと大げさだけど、学校とか行くのが面倒だなって正直思っていた。

中学時代、何が嫌だったかと言われれば、中間とか、期末テストの結果の順位が張り出されてたり、みんなの前で何点だったと発表されることだった。

あれこそ、日本の教育のよくないところだと思う。私にとって、恐怖の時間の始まりだった。

テストの点数もぶっちゃけ悪くない方だった。だからなのか、機械みたい、サイボーグじゃない?とか、言われたことがある。

私としたら、なんでそんなこと言うのって、傷ついていた。みんなと違うと何かとか言われる。

テストのたびに、数字の羅列がさらけ出される苦痛。だから、日本は出る釘打たれる文化で個性が育ちにくいと思った。

とにかく、毎回のように、何点だった?と聞かれたり、進路先をよその人に干渉されるのも、本当に嫌だった。

小さな反抗として一度、結構3年生の受験が近づいてきた時期に、まったく勉強をしないで、全科目テストを受けるということをしたことがある。

サイボーグじゃないんだよ、ということを証明したかった。

まあ、結果は散々で。どうしたの?って、
今度は順位が落ちたら落ちたで、変な焦りみたいなものもあった。

何も意味がない、変な競争意識と、自己嫌悪みたいな狭間にある、中学時代だった。

私の人生なんだから、周りがどうこう言うものではなく、ほっといてほしいという気持ちがずっとあった。すごく窮屈だった。

この窮屈に感じていた世界から、外に出たくなった。ある種の現実逃避だったかもしれない。

点数で人を判断されるなんて、なんだか間違っている気がした。本当はからっぽな自分を見透かされるのが、怖かった。

もっと自由に生きてみたかった。英語という言葉を通じてしか知ることができなかったけど、広い世界をこの目で見てみたかった。

百聞は一見にしかず。

そんなある日の英語の授業で、学校に行けない子供達がいるという記事を見た。

勉強したいと思っても行けない子がいるという話は、そんな学校で、部活が唯一の気分転換で、憂鬱な気分になっている私に衝撃を与えた。

単純に、学校に行きたい人が行けない人が世界にはたくさんいて、
行きたくない人は、行かなきゃ行けない。

なんでそんなことが起こるのか?

それが最初の「?」の始まりだったのだ。

だから、世界に出て、なぜ?を知りたくなったのだ。始まりは、好奇心だった。

最初に私が感じた問題意識の種はここにあった。

教育格差や機会の平等だった気がする。

重低音のように、ずっと私の頭の中に今でも流れ続けているし、今までやってきた仕事にどこかつながっている。

でも、その最初に飛び出す場所が、27時間飛行機乗った先だとは、中学生の頃はまだ夢にも思っていなかった。

続く


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