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人を知ろうとすること、尊重と背徳感

本当は日記に書きたかったけど、ペンを動かすのが億劫なのでnoteに載せておく。

誕生日とかなにかのお礼で、人から「何をあげたらいいかわからないけど、紅茶はよく飲んでるみたいだから」と言われて紅茶をもらうことが多い。
同じように「何をあげたらいいかわからないけど」の前置きつきで「でも甘いものは好きみたいだから」と甘いものも貰う。
どうやら私は「甘党で紅茶が好きな人」と思われているようだ。間違いではないのだけど。他にも色々あるのになぁ。

こう思っているのは私だけじゃないと思いたいのだけど、自分以外の"他人"はみんな得体が知れない。
知らないことは怖い。だから私は、基本的には人が苦手だ。
ただ「この人のことは正直ぜんぜん知らないけど、どうやらあれが好きなようだ/あれは苦手なようだ」という漠然とした属性というか、人それぞれの特徴めいたものはぼんやり把握している。その人について何もわからないから怖いのであって、わかることが増えると不思議と親しみが湧いてくるし、心を許せる気がしてくる。
たぶん私は人見知りなのではなくて、知らないものが怖いだけなのだと思う。


特に興味のない人へはアンテナを張っていないから、ただ見逃しているだけで、見逃したまま時間だけがずっと経ってしまって、そのせいでいつまでもとっつきにくくて苦手なひともいるし、仲良くなろうとする時間や機会は恵まれたけど、互いの思考や共感性のベクトルが合わないから、アンテナを張っていると不本意ながらノイズに感じてストレスになる人もいる。色々とわかった上で、合わなくて苦手なひと。

それから、少し脱線するが、人と人が関わる上で恐ろしいのは「自分だけが相性がいいと思っている」という事例が存在することだ。
これはたぶん、互いを尊重する姿勢があるかどうかだと思う。自分だけが相性がいいと思っている時はだいたい、相手が尊重しているのにあぐらをかいているだけだったりする。相手からしたら「色々とわかった上で苦手だけれど人としての敬意をもって尊重している」ので、自分だけが気持ちいい関係だったりする。ホラーだ。

というか、本当は、機会なんてなくても少し相手を見ていればわかるのだ。視覚から得る情報って本当にたくさんあるし、話しかたや声の雰囲気とかで得る情報もかなりある。
ひとは自分が今まで会った人たちの記憶を照合して「合うか合わないか」を数秒で無意識に判断できるらしい、というようなことを何かで読んだ。
たぶん、その数秒で「合う」と思った人にはきちんと観察力や共感性や記憶力なんかのアンテナが働くんだろう。

なんとなく仲良くなりたい人のことはわかっていたいし、覚えていたいのが人の常だと思っている。
ならば、先述のホラー展開みたいにならないようするにはどうしたらいいか。

すごく雑な感覚だけれど、相手を尊重する姿勢があれば大丈夫だと思う。
もちろん自分を知って欲しい気持ちも大切だけれど、そもそも「相手を知りたい」気持ちに任せて、相手の知られたくないことまで「好きだから教えて」と知ろうとする(相手がまだ踏み込まれたくない領域に踏み込む/言い換えるならば、相手に嫌いになられるようなことをする)馬鹿は、いないと思う。

逆も然りだ。聞かれないなら、シンプルに興味がないか、今は知りたくないのだ。話さないなら、今は教えたくないだけ。

「相手に好きになって欲しいから自分を知って欲しい」という人はそもそもの順番を間違えているし、気持ちの押し売りは人を困らせるだけだ。

段階的にはまず相手に心を開いてもらわなきゃいけないのに、相手の心をこじ開けて自分を詰め込もうとしても、得体の知れない人間の自己を押し付けられても、ただただ鬱陶しいだけなのだ。
ただ、アンテナを張っていても得体の知れない人は、たまにいる。たぶん、自分を見せようとしない人なのだろう。

そういえば「あなたにはあまり隙がないから、もう少し隙を見せたほうが人に慕われる」と以前誰かに言われたことがある。実は、人生で忘れた頃に入れ替わり立ち替わり、いろんな人に言われている。
正直に言うと「別に慕われたくないし、よく知りもしない人から変にとっつきにくいと思われても私だってそんな人とっつきにくいし、お互い様じゃないか」と思っていたのだけど、おそらく"アンテナを張っても得体の知れないほうに属する人間"だからこんなことを言われたのだろうと思う。

そのくせ得体の知れない人間に、自分の片鱗のいくつかを知られているのだ。そりゃあ薄気味悪くて「もう少し隙を見せろ」と言いたくもなる気持ちも、今なら理解できる。
たぶん私は、紅茶と甘いもの以外に「これが好きですよ」というあからさまな情報を落としていないということなのだろう。

文章だと結構おしゃべりなのだけど、私は実際に人と話すとなると何をどこまで聞いたり話したりしていいのかわからなくなる時がある。
なんなら、いつも話している間に混乱してくる。どこまで心を許していれば大丈夫なのかわからなくなる。

気を許しすぎたら戸惑われるだろうし、だからといって心を許しすぎなくても距離をとられていると思われてしまって、少し不本意だったりするからどっちにしろ大丈夫ではない。
あんまり聞きすぎたり話しすぎたりすると得体の知れない罪悪感を抱き、聞かれすぎると疲弊する始末なので、知りすぎるのも知られすぎるのも、結構疲れる。

心の適切な距離が目に見えたら、どんなにか楽だろうと思うことがしばしばある。そうしたら「私が気を許せるラインは今はここまでです」と互いに可視化できて、牽制したりされたりそれがスルーされてしんどい思いもしないし、私があとずさりし過ぎているなら歩み寄れるのに、と心底思う。


このnoteに書いたこと、私と性質が全然違う人にとっては理解不能だろうこともわかっていて、理解不能だと感じた人がたまに攻撃性を見せることもあるからそれが怖かったりもする。
わからないって怖いことだ。それはわかる。
でも、わからないからって、否定はしないでほしいなぁ。
否定したってなくならないし、否定は存在の拒絶のように感じて、そうされると悲しいから"そういう考えもあるんだな"とだけ思っていてほしい。

普段は気持ちの整理に日記に書くことにしている。今日はペンで書く気になれなくて、noteに載せただけなので「わからない」も「わかる」も要らないのだけど。ここまで書いておかないと反対意見が飛んできそうで、少し怖い。

理解できないものも"存在"するのって、世界のありようからしたらそれは当たり前なのだけど、その存在自体を認めようとしない人もいるのが世界の恐ろしいところだと思う。
だから私は、人が嫌いなのだけれど。
でも、他人を知ろうとすることそれ自体をやめるのは、生きたまま死ぬみたいな、自分の感性ごと、生きたまま世界を殺すようなものなので、そこまで極端なことはしないと決めている。

人嫌いの私なりに、私に向き合ってくれている人たちそれぞれを知りたいなとは思っている。
でも、全部知らなくてもいいとも思っている。
知りすぎるのも、知られすぎるのも、やっぱり怖いことだから。
だってほら、これは本当は日記に書くつもりだったって読んだ時、少し背徳感があった人、たぶん居るでしょう?そういうことです。

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