私が写真という表現を選んだ理由 続
数年前、私の強みはこの辺にありそうだと、と教えてくれた友達がいる。
その子が少し前、さらに私の強みとして核心にせまったことを伝えてくれた。それが、「私が世界を見る視点」
その子は言った。
「新海誠監督って、東京の街をすごく綺麗に描くじゃん。あれって、美しく誇張して描いているっていうより、本当にそう見えてるんじゃないかって。うりちゃんも同じ目を持ってるんだと思う。」
この言葉を聞いたとき、うんうん確かに監督の作品って、そうだよなあと納得した。監督の作品を見ていて私も思う。
「そうだよね、雨ってこう見えるよね。」
「この時間のこの光、ぐっとくるよね!」と。
昨日になって、友達がその話を解説している方の動画をシェアしていた。
「現実があんなに綺麗に見えるっていう、あのレンズを持っているっていうことが、新海誠のすごい作家性」
動画の中でこの言葉が出てきたとき、なぜだかわからないけれど、私は号泣した。
床に身を投げ出して泣き続け、それから身体を小さく丸めて、泣いた。
泣きながら、好きでよく娘に読み聞かせていた絵本が頭に浮かぶ。
文章はそれほどでもないけれど、絵がとにかく圧倒的なのだ。
クローズアップしたり、俯瞰になったり、視点が次々に変わっていく絵で構成されており、その季節を実際に体感している時の感覚が蘇る。
「そうだ、あの絵本も、私が好きなのは視点なんだ」
そう気がついた瞬間に、何かが繋がったような感覚になり、私は嗚咽した。どうしたって一体こんなに涙が溢れてくるっていうんだろう…。
私の魂は、持って生まれた私自身の大切な大切な宝物の存在に私が気づいたことをもしかしたら喜んでいるのかもしれない。
そう、まさに、先日のnoteで私が書いたこの部分。
私はいつも自分のことを平凡だと思って生きてきた。
私が見ている景色は、みんなが見ているものと同じだと思っていたから。
でも、ここ数年いろいろなタイプの友達と付き合ううちに、みんなそれぞれがそれぞれの世界を見ていることに気がついてきた。
だとするなら、自分のことを平凡だなんて思うのは、世界にとっての損失とも言えるかもしれない(こう書くのは勇気がいる)
「世界って美しいんだよ」
それを伝えることが、私の使命なのかもしれない。
地球規模で考えたら、それがどんなにちっぽけなことであっても。
ちょうど昨日、この友人にまた別の相談をしていたところだった。
内容は、真似されることに対する嫌悪感について。
私の行った場所に行き、写真の構図から色調何もかも真似してSNSに載せる人。
講座のコンセプトや内容を真似して同じような講座を開講する人。
そして、これは無意識だと思うけれど、
文体や発信内容がどんどん私に似てくる人。
(その人の投稿を見ていた友人が「最近あの子、みゆきちゃんの
文章真似してるみたいだよね」と伝えてくれたので客観的に見ても
似てると感じるのだと思う。ただ、これは、無意識に影響を受けている
可能性が強いんだろうから仕方ないよなと頭では理解している。)
そういう人たちに対して嫌悪感を覚えて、ついつい発信を見ないようにしてしまう。自分の心を守るために。(この現象への心の対処を早急に覚えたい)
この現象も、自分の視点をいかに私の魂が大切にしているかの現れ、なんじゃないだろうか。そんな考えが頭をよぎった。
泣きながら、私はわたしの肩を抱く。
あなたの大切にしているものを、もっと大切にしていこう。
私もこれからは一緒だよ。
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数年前、私が人生で1番の暗闇にいた頃、fbにこんな投稿をした。
心が潤っている状態を保ち続けることって、本当に大切だね。
写真には心が写る。
だってその時見えている景色が写し取られるんだもん。
表現して生きていくのに必要なこと。
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