本音 責任と愛情
色んなことを無視して思いつくままに書きます。
私には子どもがいる
義理の息子である。私が義理の息子だとわざわざ注釈するのはそこに言い訳があるからだ。あの子が生まれた時のことを知らない。子どもはいるが出産経験はない。小学生の子育てをしているがそれよりも幼い子どもを育てた経験はない。
子どもがいると言うと、特に女性は・その子どもを産んだ当人だ・つまり出産経験がある・その子どもを生まれた時から育てている、という前提が話に織り込まれてしまう。
なのでその前提で私の話を聞かないでください。と思っている。主に子どもの年齢=子育て歴ではないということを強く言いたい。私は小学生の子どもと同居してまだ1年も経っていない。
小学生の子育てをしているけれど母親歴1年です、という人は、たぶん周りにはいない。そして、義理の両親とは仲良くないので頼れないし、自分の両親にとっても子どもは義理の孫なわけで、そもそも反対されて結婚しているので、子どものことで頼れる人はいない。正直言って本当に心細い。
私には責任がある
それでも子どもを育てていかなければいけない。育てるのが何することなのか具体的なことは置いておいても、とにかく一緒に暮らしていて少なくとも生活の面倒をみなければいけないし、一般的な躾と言われるようなこと(やってはいけないことややらなければいけないことを教えることとか)はしなければいけない。
これが最低限の責任なんだと思う。
私には責任はあるけれど愛情はない
それが産みの親ではないからかどうかはわからないが、子どもに対して、私は愛情を持っていない。はっきりと言える。それは以前も書いた。そして割と隠さずに言い切れる。ないものをあるとは言えない。ただしそれは本人や子どもの父親にわざわざ言うことではない。
しかしそれがなんだか試される時がある。というか試されていると感じる時がある。つまり勝手に感じているのだけれど、そして本当に愛情はないのかな?と思う時がある。
責任はないけれど愛情はある
そう。本当は逆なんじゃないか。私には責任なんてものは一切ない。むしろ愛情しかない。他に何もない。あの子を育てる理由が。
愛情は否定されると悲しい。傷付く。嫌いな人から嫌いと言われても何も思わないが好きな人から嫌いと言われると致命的である。
産みの親ではないこと。それ自体は問題ではない。それをコンプレックスにしていることが問題だ。ほとんどの問題はそうだ。そしてもっと問題なのはそれをコンプレックスにしているという認識がないことだ。無意識に思っている。私はそんなことで悩んでいないと思っている。強がっているだけだ。
私は産みの親ではないけれど、そんなことどうってことない。子どもからどんな風に言われても平気だし、私には愛情はないから、これは責任でやっていることだから、仕方なくやっているし、文句を言われても知らん。嫌われても傷付かない。こうやって自分を守っているのかもしれない。