#8 プロドラマーから社会貢献へ。「何度転んでも立ち上がる音楽家の物語」
最初にお読みください
わざわざ、こんな自分語りのテキストを見ていただき、本当にありがとうございます。
わたしは恵まれない家庭環境に生まれ、趣味がなく、本を読んで、一人で妄想にふけるのが好きなインドア人間でした。
そんなわたしでも、自分の力で生きる道をつくり、社会で役に立つ存在になれるヒントをお伝えできればうれしいです。
こんな方におすすめです。
・夢を諦めかけた経験のある20〜40代の方…..今いる環境にめげずに、前を向いて生きるパワーが湧いてくる
・家族とキャリアの狭間で揺れた経験のある人…..家族の絆の大切さと、夢を追い続けるための希望が持てる
・どうしても叶えたい夢がある方…..マルチハイフンとして活躍する筆者の奮闘ぶりに勇気が出てくる
・海外で自分の可能性を試したい方…..日本と世界を行き来した生々しい人生の軌跡に触れられる
このnoteは「非日常の冒険に出かけて、大きな試練に打ち勝ち、成長して元の世界に戻る」ヒーローズジャーニーの構成をイメージして作成しました。
参考にしたサイトはこちら。
9歳で訪れた人生の転機
兵庫県宝塚市生まれ。両親、弟、父方の祖父の5人家族。大阪の夜景が見渡せる高台の一軒家に住み、ごく普通の家庭環境でのびのびと幸せな日々を過ごしていました。
しかし、私が9歳のある日、父が突然くも膜下出血で天国に旅立ってしまいます。家族みんなの笑顔が、一気に消え失せてしまいました。母の表情からは彩りが薄れ、家中がいつも散らかった状態に。おじいちゃんは心を閉ざし、弟もおとなしくなってしまいました。
私自身も、毎日ふさぎこんでいました。
「どうして、どうしてパパだけが......?」
「私も、いつかは死んでしまうんだ」
不安と恐怖心で、心が冷え切っていく感覚は、今でも覚えています。誰もがいつかはこの世を去ってしまう、その現実を、幼い頃から突きつけられてしまいました。
「父の元に、行こうかな......」
そんな夜すらありました。目を腫らして、枕を涙で濡らした日々が続いて・・でも、残酷にも、毎日の生活は止まりません。
このまま、泣いてばかりではいけないなと、思い立ちました。
懸命に努力して、誰かの役に立てる自分になろうう。この命を無駄にせず生きていこう。私はそう決意しました。
「人生は短い。だからこそ、死を意識しながら生きて、悲しみも喜びも全部味わおう。」
音楽との出会いと、周囲の反対
そんな中、私はある曲に出会います。Mr.Childrenの名曲「Over」です。
美しい旋律に微風のようなコーラスが絡むイントロ。軽快なドラムをきっかけに曲の物語が始まります。
「何も語らない 君の瞳もいつか思い出となる
言葉にならない悲しみのトンネルを さあ、くぐり抜けよう」
サビの切ないメロディーと歌詞を聴いていると、魔法にかかったように心の傷が癒やされました。父の存在しないこの世界でも、音楽があれば笑って生きていけるかもしれない!
「音楽ってすごい。こんなにも人の心を動かせるんだ」
私の夢が決まりました。大人になったら、音楽家になる。
音楽で世界中の生きづらさを感じている人々を救いたい、と。
しかし、音楽一筋の道は並大抵のことではありません。母子家庭で、母はパートで食いつなぐしかない環境。芸術家の夢を追うハードルは高すぎました。
周りからは夢を諦めるように言われ続けました。親友は「片親でしょ、夢を持つなんて無理」と。先生からも「片親なんだから、早く働いてお母さんに楽をさせてあげなさい」と。でも私の人生は一度きりなんです。私は反対の声を押し切り、高校卒業と同時に上京しました。
覚悟がつかんだ、世界へのきっぷ
東京での一人暮らしは、貧しくて孤独でしたが、毎日音楽に浸って過ごしました。そしてリズムの魅力に惹かれ、ドラムの世界へ足を踏み入れました。
日本で有名なギタリストの方に認められ、世界各地の多様な音楽リズムを学ぶ機会に恵まれました。そのギタリストはアメリカのルーツミュージックにも精通しており、地道な努力を続けた結果、海外から数々のオファーをいただくようになったのです。そこで、長年抱いていた“海外での演奏活動“に舵を切りました。
心の中の想いを押し殺さず、勇気を持って一歩を踏み出した私。そこから海外ドラマーとしての旅が本格的にスタートしていきました。
海外で活動を広げていた中、ベトナムで衝撃的な出来事がありました。そこで出会ったのは、極貧の環境にありながらも、ドラマーになる夢に向かって、情熱を持ち続けている少年でした。
そんな彼に、持っていたドラムスティックをあげることしかできなかった私。音楽の力だけでは、世界中の人を幸せにできない。自分の無力さを感じた出来事でした。
「世界中の誰もが、自由に音楽を続けられる環境を」
私はそう願うようになり、途上国の開発支援に興味を持ち始めます。
マルチハイフンで世界に音楽を届ける。辛い葛藤を経験して出した答えは・・・
高卒&工学知識ゼロの状態から、必死で勉強しました。書かないと物が覚えられない性格なのですが、あまりの知識量に、指が痛み、我慢して歯を食いしばった結果、奥歯が欠けました。
それほど勉強して、大手建設コンサルタント会社に派遣社員として入社し、直雇用(アルバイト)になり、社員へと登り詰めました。途上国の開発事業を提案したり、都市交通整備のプロジェクトマネージャーを務めたりと、音楽と仕事を両立する毎日を過ごします。そしてついに、アメリカの著名ミュージシャンからスカウトされたのです。
しかし、この頃から家族の体調が悪く、疲弊した家族をケアするために、ときどき実家に帰っていたのです。
音楽の夢と、家族のどちらを選ぶのか。私は激しく揺れ動きました。
「生まれてきた環境で、自分の人生が決まるなんて絶対にイヤ」
「こんなに頑張ってきたのに、どうして...」
友人に、その複雑な心情を打ち明けていた時、突然、わーーーーーっと大声で泣き叫んでしまいました。あまりのストレスに、立っていられなくなり、そこに座り込んで、嗚咽が止まらない有様でした。
「普通の家庭に生まれたかった」
言ってはいけないその言葉が喉の奥から出かかって、悔しさで涙が溢れ出てきました。やり場のない怒り、悔しさと悲しさで気持ちの整理がつかなくなっていました。
私は・・・・、
ずっと劣等感を持っていました。クラスの友だちと自分を比べて、お父さんとお母さんがいる普通の家の子に憧れていました。“片親のかわいそうな子“そんな運命を自分の努力で変えたい。生まれたきた環境で自分の人生を決められたくなかったんです。
この日、一つの答えが見えてきました。
「音楽も、大切な家族も、絶対に諦めない!!」
改めて、自分の道を選び直したんです。
音楽と仕事の両立で、心身が限界に
夢だったアメリカの仕事は辞退しましたが、夢は決して諦めませんでした。その後、日本を拠点にして世界中を飛び回り、海外のJazz/Blues Festivalや五つ星ホテルなど700本以上のライブを行いました。観客総数は10万人を超えています。世界60ヵ国以上のアーティストとも共演しました。
開発の仕事でも評価され、ガーナ、モロッコ、インド、東南アジアなど世界約20カ国のインフラプロジェクトに従事。総額数十兆円のプロジェクトマネジメントを経験しました。そのころ家族の症状も落ち着いてきて、私の負担も減っていきました。
でも一方で、体はボロボロになっていました。ストレスで毎晩お酒を飲んだり、食欲もなく体重は8kgくらい落ちていました。
家族への貢献、音楽活動、途上国の開発支援….、私のいままでの人生は、“誰かの役に立ちたい“と自分を突き動かしてきました。
自分のことを後回しにしてきた、そんな生き方に限界がきていたのかもしれません。心も体も疲れ果て、幸せが何だったのか、正直わからなくなっていました。
そんな時、私の全てを受け止めてくれた彼からプロポーズを受けて、結婚。第一子を出産し、可愛い我が子に恵まれました。
育児の合間をぬって、合格率が1%にも満たない国家資格(技術士・都市および地方計画)に一発合格し、ドラマー復帰第一弾の海外ツアーも決まり、復職への目処がたったときに、ある事件がおきます。
復職する直前のコロナと渡米。全てが白紙に。
コロナで世界中がパンデミックに見舞われてしまったんです。そして、別の試練も訪れます。夫の仕事で、渡米が決まり、復職に向けて動いていた準備は、渡米とコロナで一気に白紙に戻ってしまいました。
「私の夢はつまずいてばかりだな」と、人生ではじめて心が折れました。
しかし渡米後の環境の変化が、新たな気づきと成長の機会を与えてくれました。
日本社会には、「夫の仕事を最優先に」「子育ては女性が担う」といった価値観が根強く残っており、女性のキャリア形成が阻害されがちです。一方で、アメリカでは男女が協力し合いながら、お互いのキャリアを尊重する文化があるのです。女性だけが夢を諦めなくてもいいんだと気づきました。
その頃、子育ての喜びに触れて、自身の中にもうひとつの変化が起こり始めます。子どもたちの愛らしい姿に触れる度に、今まで感じたことのない至福の感情に包まれていたのです。
「幸せって、穏やかな日々の中にあったんだ。私は、この手に入れにくい家族の愛をずっと求めていたのかもしれない」
そう悟ったときから、新たな人生の指針が見えてきました。
女性が活躍するためには、社会の意識改革と制度的な後押しが不可欠です。しかし同時に、私は一人一人が“自分の本当の価値観“に目を向け、“他者の価値観を手放す痛み“と向き合うことも大切だと気づきました。
自身の本質的な幸せを見つめ直し、勇気を持って歩んでいく。そこから、子どもたちとの幸せな時間と夢を両立した新しい未来が開けるかもしれない。
そう気づいてから、私の中で化学反応が起きていったのです。
ありのままの自分を受け止め、音楽と社会課題の解決へ
そして2021年から、音楽活動の本格化と、社会課題解決の“プロデュース業“に乗り出しました。
2022年には、渋谷区の子育て支援施設で使う英語音楽教材の音楽プロデュースをしました。世界各国のリズムを取り入れた編曲、サイレントビートを使った、日本初となる、”ネイティブの英語リズム”を取り入れた英語教材を制作することができました。
この新しい試みの英語音楽教材は、全国の幼保育園、小学校から高い評価をいただきました。日本の子どもたちに、音楽を通じて“新しい価値“を提供できたことが、何よりも嬉しかったです。
また、アメリカン・ルーツミュージックの知見を活かし、全国の英語教室の先生方向けに英詞歌唱力アップのためのリズム講座を開講したところ、こちらも好評を博しました。その後、ブロードウェイ・ミュージカルの若手プロデューサーや、ミュージカル俳優を目指す子どもたち、日本人アーティストへのリズムコーチングへと活動の幅を広げました。
また、途上国での公共事業の財政管理支援、第三セクターの経営支援などを活かせるのではないかと、ビジネス分野にも関わりました。ウェルネスビーイング、農家支援などで、経営支援や事業プロデュースを行い、どれも前年比2倍の売上げを達成することができました。
子育ての傍らでコツコツ続けた活動が、音楽から、教育、ミュージカル、ビジネスなど多方面の方に喜んでいただけるようになってきました。
その頃になると、幼い頃から抱えていた「自分の命を誰かの役に立てなければ」という使命感や、一般家庭の人と比べて「もっと頑張らなければ」という焦りは、なくなっていました。
木々たちは「自分を大きく見せたい」とか「あいつよりすごくなってやろう」と周囲を見渡すことはないのです。ただ上を向いてひっそりと立っているだけです。
頭上に広がる空を眺めて生きていけばいいんだなと思うようになりました。
音楽家から、人類の認知を上げて幸せを作り出す“ソーシャルイノベーター“へ
そして、私の新たな夢は、"世界のリズム“から得た価値観で、“人類の音の認知を進化“させて、新たな幸せを作り出すことです。
音楽表現からソーシャルビジネスまで活動の幅を広げ、社会をさらによくしていく。次の世代により良い社会を届ける。
こうした思いを胸に、私の旅路は音楽家とソーシャルイノベーターというマルチハイフンな活動を通して、これからも革新的な物語を綴っていきます。
最後に父のノートに書かれていた言葉を送ります。
この記事が、今日も頑張っているあなたを勇気づけられたら嬉しく思います。あなたと、同じ時代に生きれていることに、心から感謝いたします。
長文をお読みいただきありがとうございました。