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東京に消費されない自分でいること。
東京は、楽しい。これまで35年間、一度も地元から出たことがなかったわたしにとって、憧れ続けてきた東京での暮らしの楽しさは想像をはるかに超えるものだった。
欲しいもの、食べたいもの、行きたい場所。それらはいつだってすべて東京にあった。
小学生のころ、初代たまごっちが爆発的ブームとなったときも、東京ですら品薄のたまごっちは田舎の小さなおもちゃ屋さんに入ってくるわけもなかった。
たまごっちもタピオカも、わたしの地元にやってくるのは東京の女子高生が散々遊び尽くして、もう話題にもしなくなった頃に、ようやくだ。わたしがタピオカの味を知る頃、東京の女子高生の興味はもう違う新しいものにある。
そうして、東京よりワンテンポもツーテンポも遅い時間軸の中で生きてきたわたしが、35歳で上京して東京のスピード感の中で生きるようになって、まもなく2年になる。
東京のスピード感の中で
東京の街は想像していた以上に、最新のものや楽しいことが溢れている。
この短い夏の間だって、マンゴーのスイーツが出たと思えば、あっという間にピーチのスイーツに変わってわたしを飽きさせない。それが程なくしてさつまいもや栗のスイーツに変わり、秋を感じなくちゃと思わせる。
そう、この街のスピード感の中にいると「置いていかれないようにしなくちゃ」と思わされる。
置いていかれないようにしないと、欲しかったものも見たかったものも、あっという間にすり抜けて振り返った向こう側へ行ってしまう。それが非常にもったいないことのように感じて、ちょっぴり焦燥感に駆られる。
これまで、東京に置いていかれることが当たり前の世界で生きてきたというのに。
みんなではなく、わたしは何がしたい?
だけど今になって思う。これまでのわたしが東京に対してもっていた憧れは、あれもこれも「消費すること」だったのだと。
これまで地元ではお金を使いたい場所すらロクになかったというのに、魅力的な選択肢に溢れた東京ではどれだけ時間やお金があっても足りない。
欲しいものや行きたい場所はどんどん出てくるし、毎日のように友だちやメディアやSNSが、楽しいことをもってくる。
このキリがない欲望の中で、わたしたちは自分の判断基準をしっかりともって取捨選択しなければならない。見せられるもの、誘われるものすべてに関わっているわけにはいかないのだ。
みんなが行くからと、当たり前のように自分も「行く」を選択していないだろうか。人がSNSにアップした内容をなぞるように行動していないだろうか。
わたしが本当に欲しいものは何で、行きたい場所はどこで、会いたい人は誰なのだろうか。
それを自分自身がよく知っていなければならない。
消費するしかない暮らし
たくさんの選択肢に溢れる東京生活で、これまでの人生にないほど消費の渦中にいたことを自覚したわたしは、一方で、地元にいる両親が「消費するしかない暮らし」の中にいたことを知った。
身体的な事情や能登半島地震の影響で働くことができなくなり、徒歩以外の交通手段をもたない両親は今、テレビや動画コンテンツを消費することしかやることがなく、それにも限界があると嘆いている。
よくよく考えてみれば、父は料理をつくる仕事ひと筋で、昔はギターを弾いていたようだ。母は手先が器用で手芸が好きだったし、小説を書くことや読書も趣味だった。
そんな両親は、高齢になって身体が悪くなったことと不便な環境の中でいわゆる「クリエイティブな活動」ができなくなり、ただただ消費して生きるしかない状況にある。
「畑をしている老人な長生き」みたいなことをよくいうが、よくよく考えればあれは身体も動かすし、作物を育てるというクリエイティブな活動だから納得がいく。
なんでもある東京、なんにもない田舎。どこにいようが自ら生産できない人間は、他人がつくったものをひたすら消費する生活を送るしかない。
消費することから、生産を楽しむことへ
わたし自身は幸いなことに、今のところは心身ともに元気に活動することができており、東京での消費と刺激の中でさまざまなインスピレーションが湧いてくるので、それらを新たな生産に転換できている。
今のライターという職業を考えても、地元にいたのでは新しいコンテンツを生み出し続けるのは難しいと感じる。
そんなわたしが一緒にいて心地いいのは、自ら何かを生産しているクリエイティブな人たちばかりだ。そうした人たちはいつも楽しそうで、退屈している様子はない。一方で、消費活動だけに傾いている人とは、いまいち会話が合わない。
「まだ東京で消耗してるの?」なんて言葉もあったが、受け身で消費だけする生活を送っているのであれば、ひたすら東京から搾り取られているような感覚に陥り、東京での暮らしに疲れてしまうこともあるのかもしれないと思う。
多くの機会に恵まれた東京を楽しみ、この環境で生き抜くにはきっと、消費することだけではなく自ら生産することも覚えなくてはならない。
全員が職業クリエイターになれという話ではない。受け身で流されるようにただ生きるのではなく、意思や目的をもって活力的に動く「活動」をしなければ、東京での生活は自ずと消費に傾いてしまい、無自覚のうちに自分を消耗してしまう。
東京で得られる多くの消費の機会を、新たな生産に向けるサイクルを作れる人が、東京を楽しみ続けられるのだろうと思う。
どうかあなたも、自ら何かを生み出す楽しみをこの東京で見つけてみてほしい。
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