誰かと何か話したいときに、noteを書いてみる
誰かと何か話したい、ということがよくある。
しかし、なかなか相手は見つからないし、何を話したいのかよくわからない。
たとえ運良く話し相手が見つかった時でも緊張して話が盛り上がらない。
話題も特にない。
自分が薄っぺらに感じる。
そんな時に、noteで自分の記事を見返したりしている。
私何考えてたっけ。
これが結構恥ずかしい。
3ヶ月ほど前に、「執筆は自分とのそして他人とのコミュニケーション」という記事を書いたのだが、私は最近自分自身とのコミュニケーションに飢えているようである。
自分のことがよくわからなくなる時がある
これが持病(双極性障害)の鬱状態なのかもしれないが、時々
・何をしたいのか
・何をしたらいいのか
・何が好きだったのか
がわからなくなる。
人生で何をしたいのか、とか壮大なことではなくて、今週末何しようかというレベルのことだ。
時々自分が何もする気がないことに気づく。
以前は熱狂的にハマっていたことでさえ、腰が重くなっている。
そんなこと(趣味など)をして何になるんだろう。
聞きたくない声が私の中から聞こえる。
薄っぺらな私は、虚無にも囚われてしまったようだ。
そんな時に、とりあえず自分の気持ちを文章化してみたらどうなのかと思った。
(そんなことして何になるの、という声は無視する)
誰かと何かを話したい。だからまず文章を書くことで自分と話をしてみた。
私が恐れていることは、希望の裏返し
私は自分の心がぱさぱさに乾いていくことを恐れている。
好奇心を失い、好きだったことを忘れ、成長することをやめる。
そんな未来の自分が少し見え隠れする時に、とても不安になる。
ああ、とそこで気づく。
恐れがあるということは、私にはなりたい私像があるのだった。
内向的だけれど、本を読んで好きなことについて知識を深める。
できれば興味の幅を広げていって、日常の中にある知らない世界に飛び込んでいく。
まだまだ難しいかもしれないけれど、人と色々な世界について語り合う。
文章にすると、頭が少しスッキリする
書くことによって、自分がどんな人間だったっけと思い出せる。
書くことは、自分と向き合うことだ。
誠実に書いていこう。
誠実に自分と向き合うのだ。
薄っぺらな自分を、それを恐れている自分を、目をそらさず見つめていくのだ。
やっていこうと思う。
★★★
お読みくださってありがとうございました。