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双極性障害II型になって12年② (2008〜2013年)

2008年:25歳

私は新天地で大学研究室助手として働き始めます。
新しい研究室は初めとても緊張しまいたが、雰囲気がよく「ここに来れて良かったなあ」と思っていました。
夏の暑さにバテることがありましたが、自分としては学生時代の研究室生活とは打って変わって規則正しく生活することができていました。仕事もとても楽しかったです。
しかし、ある時研究室を事件が襲いました。詳細を書くことはできませんが、私はひどくショックを受け、また季節が秋から冬に移る頃だったこともあり再び調子が悪くなりました。

2009年:26歳

働き始めた時から近くのメンタルクリニックを探し、学生時代と同じ薬をもらっていました。しかしどんどん悪くなる症状に薬の量と種類は増えていきます。薬の副作用で高プロラクチン血症にもなりました。
同僚の先生の紹介で少し距離のある大学病院へ転院することになりました。
月に一回、電車で1時間半ほどの通院でしたが、とても丁寧に診察してくださる先生で信頼できました。
しかし、症状はなかなか良くなりません。特に月経前にひどくなり、人が違ったようだと言われました。騙し騙し働き続けましたが、本当は休職すべきだったのかもしれません。周りにもいきなり職場に行けなくなってしまうことで、大変な迷惑をかけました。
12月に学会があり、口頭発表をしました。100名ほどの小ホールでしたが、その前日からふらふらと揺れているようなめまいが起こり、学会が終わると両耳で聴こえる音の音程が変わっていました。急いで耳鼻科に行くと、メニエール症だろうとのことでした。その後度々、めまいに襲われることになります。

2010年:27歳

私は就職3年目も同じように時々休みながら、仕事を続けました。
そんな中で、大学の博士課程に社会人入学することに決めます。就職した時から、そうしたいと希望していました。受け入れ先は大学の時に所属した研究室です。それまでに集めたデータを見せた時に、元の先生に「それだけ?」と言われたのを鮮明に覚えています。
大学院入試は夏でした。
入試に合格し、私は翌年度から博士課程に所属することになります。

2011年:28歳

東日本大震災があり、非常に緊迫した時を過ごしました。
私はさらに調子が悪くなります。

2012年:29歳

この年から母が私のアパートで暮らしてくれるようになりました。週に一度、3時間かけて通ってくれるようになりました。それほどまでに、私の状態が悪くなっていました。
家族がいると少し調子が良くなるようでした。鬱の時に落ち込みが長く続かないことと、必ずご飯を食べるようになったことが大きかったと思います。
ただ狭い部屋の中で二人で過ごすのは少しストレスも感じました。おそらく母も同じだったろうと思います。

2013年:30歳

秋に母が実家で事故に遭います。手術をしてしばらく入院になりました。
私は母が来なくなったアパートで3週間動けなくなりました。
連絡を受けた父が車で実家に連れ戻します。その頃の記憶も記録もほとんどありません。
私は実家から電車で片道3時間かけて職場に通うことにしました。
実家を出るのが朝6時で、家に着くのは夜10時頃になりました。体力のない中でよく続けられたなと思います。
この年は博士課程の3年目でしたが、私は論文を書くことができていませんでした。

続きます。

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