ウフィツィ美術館
フィレンツェの最終日は、朝いちばんの『ウフィツィ美術館』を予約しておいてくださいました。この後、ローマに列車で移動して、午後には、PCR検査を受けるという、この日もタイトなスケジュールです。
『ウフィツィ美術館』は45年前に立ち寄ったものの、寄ったといえない、ほぼ記憶がありませんでした。名画ばかりですが、フィレンツェの歴史を先に復習しておいてこそ、もっと深く楽しめたかなと、なので歴史から簡単に自分のために整理しました。間違っていたら教えてくださいね。
フィレンツェ、メディチ家の歴史
フィレンツェは12世紀以来、民主政治を行う共和政をとり、
商業都市として発展。
多くの芸術家を生んだ工房がたくさんあり、その背景の中から、職人とは違った芸術家が生まれました。
ドゥオモ『キリストの十字架像』のジョットもそのひとりで、
その後、マザッチオやドナテッロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどがあらわれました。
この時代、芸術家の保護者となったのが、メディチ家。
メディチ家の基礎を築いたジョヴァンニ・デ・メディチは、
1397年にフィレンツェ市内に銀行を設立。
メディチ銀行はローマ、ヴェネツィアなどにも支店を持ち、
ローマ法皇庁は、メディチ銀行を主要取引銀行に指定しています。
1429年にジョヴァンニ死去の後を継いだのが、息子のコジモ。
コジモは、ブルネレスキ、ミケロッティ、ドナテッロらを
パトロンとして後援していました。
1464年にコジモが死去し、その息子ピエロも5年後に亡くなり、孫のロレンツォが20歳で当主になり、ロレンツォの時代に、ルネッサンス文化は最盛期を迎え、ボッティチェリやミケランジェロが活躍しました。
フィレンツェはあくまで共和政だったのですが、実質上はメディチ家の君主国家のようになっており、反感を持ったパッツィ家により、ロレンツォの弟ジュリアーノは殺害されてしまいます。
ロレンツォの死後、メディチ家はフィレンツェを追放され、衰退。
ミケランジェロもフィレンツェを去り、ルネッサンスはローマに。
ウフィチ美術館
その後、コジモの弟、ロレンツォの子孫であるコジモがフィレンツェ公コジモ一世となり、息子フランチェスコが皇帝フェルディナント一世の娘と結婚すると、ローマ法皇より「トスカーナ大公」の称号をもらいます。
コジモ一世は、1560年にヴェッキオ宮の隣に新しい役所となる建物を建てました。これが「ウフィツィ」(イタリア語でオフィス)。
コジモ一世の息子で次のトスカーナ大公フランチェスコ一世が、このウフィツィの3階をメディチ家が収集した絵画を納める画廊にしたのが、
『ウフィツィ美術館』の始まりです。
13世紀から15世紀のゴシック絵画
15世紀フィレンツェの絵画
ボッティチェリ
トリブーナ
『ウフィツィ美術館』を、ジョルジョ・ヴァザーリが、ヴェッキオ宮、
ウフィツィ美術館からヴァザーリの回廊、そして、アルノ川にかかるヴェッキオ橋の2階の回廊を通って対岸のピッティ宮まで、外を出ずに行けるようにしています。
レオナルド・ダ・ヴィンチ
ラファエロとミケランジェロ
自画像コレクション
カラヴァッジョ
さよならフィレンツェ
『ウフィツィ美術館』を終えて、ローマ行きの列車に乗るまでの街歩きです。