J.S.バッハの音楽はいつも僕に力をくれる【前編】
音楽記事あれこれ。今日のテーマはクラシック音楽の原点であり「音楽の父」として語られる事も多い偉大なる作曲家、J.S.バッハ。
3月31日に生誕日を迎えたばかりのバッハについて、ピアニストとして感じることや、実際に体験したエピソードを少し書いてみようと思います。(※カレンダーによっては3月21日が生誕日です)
バッハとの出会い
はじめてバッハを聴いたのは0歳の時、いや、もしかすると生まれる前かもしれない。母は趣味でチェロを弾き、その頃無伴奏チェロ組曲ト長調をよく練習していた。
2歳半からは僕も遊び感覚でピアノを始めたが、バッハに挑戦したのは5歳の時、祖母のサポートで弾いたメヌエットが最初だったような…
その後はピアノを習う世界中の子供たち同様に小品やインベンション、シンフォニアを少し齧ったものの、本格的にバッハと向き合うようになったのは11歳、リスト音楽院に入学してからだった。
バッハの課題をクリアするまで、リストや他の作品を弾かせてもらえなかった
当時の僕はこどもながら、リスト音楽院に入ったので当然朝から晩までリストの曲を習うものだと思い込んでいた。しかし、恩師エックハルト・ガーボルのクラスはそう甘くはなかった。実際に入学して早々に出された課題はまさかのバッハ!それもインベンションとシンフォニア全曲をゼロから弾くというものだった。
何を隠そう、まだまだ幼かった僕はその当時バッハの作品が嫌いだった。弾いていても音楽として楽しめず、恩師からの課題の意味も全く理解できなかった。その悔しさあまり、一人で泣きながら練習していた事も決して珍しくなかった。それでもなんとか「我慢」を続け、一年かけて課題を全てクリアした。そこでようやくリストの練習曲やショパンのバラードといった「名曲」を弾く許可が出て、素直に喜んだ事を今でもよく覚えている。
リスト音楽院で学んだ、ピアノ以外のバッハ作品
実はバッハの作品に「苦しんでいた」のはピアノのレッスンだけではなかった。同じ音楽院一年生の時、ソルフェージュ&音楽理論の合同クラスでも凄まじい量のバッハが課題に出されていた。オルガンのための4声コラル(コラーレ)をはじめとする複雑な曲ばかりを新曲譜読み、聴音、アナリーゼ、クラス合唱、弾き歌いとあらゆる角度から「消化」する過酷な訓練だった。
最初の頃は課題を追うだけで精一杯だったが、2年生に上がる頃には少しだけ余裕が持てるようになり、その頃からか徐々にバッハが生み出す和音の美しさに心を奪われていった…
つづく
(©︎Miyujik Official, 2021)