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ミクロからマクロな視点へ

このnoteは前回の続きです。最初にこれをぜひ読んでみてください!



Global Dynamics & World Peace

授業は、教授から紙切れ一枚を配られるところから始まった。
そこには、世界平和度指数ランキング(2013年版)が載っていた。見ている内に、何かしっくりこないことに気づいた。それは日本がアメリカよりも順位が高いことだった。なぜなら、私にとって日本よりもアメリカに住んでいる方が平和だと感じると率直に感じていたからだ。ここで私が使った「平和」という言葉は、私個人の「幸福」と等しい意味があることに気づいた。
なぜ私にとってアメリカにいる方が平和、幸せに感じるのだろう?そこから問いが始まった。日本とアメリカでの生活を比べていく中で、大きな違いをひとつ見つけた。それはアメリカにいる時、私はもっと自由になれるということだ。(※ここまで「アメリカ」と一括りにしてきたけど、これは私が自分の大学で経験したことであって、アメリカに行けば誰もが同じような経験をし、同じように感じるとは限りません。)

日本にいる私は、毎日スカートを着て学校に通っていた。ズボンの方が楽だったけれど、ほとんどの女の子はスカートの制服を着ていた。女の子は大人になると、メイクをして出かけることが多い。日本社会には画一された女性の美しさがあるように思えた。もちろん、私もその一人だった。しかし、アメリカのアーラム大学に来てからは、日本にいた時と違って、自由に自分を表現できるようになった。まず、最初の学期に思い切り髪を短く切った。そして、ズボンしかはかなくなった。もちろん、化粧もしなくなった。自分がしたい格好をして、かつ周りの人もそんな私を好きでいてくれた。これは一つの例にすぎないけれど、このような経験から私はより自由を感じ、それが自分の幸福に繋がり、私が表現する「平和」となったのだった。
(※あえて女の子、女性という表現を使いましたが、ここでは生物学的な性別としての女性を意味しています。もしこれが不適切な表現であると感じた場合は、ぜひ教えて頂けると幸いです。)

授業でガルトゥングとボールディングの両者を学ぶことで、この経験に関連した、目からウロコの瞬間があった。ガルトゥングを学ぶ前の私は、先ほど例として挙げたような、日本での生きづらさを狭い視野(ミクロな視点)でしか見ていなかった。髪を短くしたらどう思われるだろう?半ズボンをはいて友達と遊びたいけど、きっと似合わないだろうな...。または、メイクをして外出することが当たり前すぎて、それをしないという選択肢すら思い付かなかった。


ガルトゥング(Johan Galtung)

しかし、ガルトゥングを学んだ後、私はいかに自分と自分を取り巻く人々との対立にしか目を向けていなかったかに気づいた。ガルトゥングの「積極的平和」(Positive Peace)を言い換えると、社会正義や構造的暴力の不在とも言えるだろう。(ガルトゥング1969、183)この考えに基づけば、社会には、他の人に直接的に暴力を与える人などいないのかもしれない。暴力は社会構造の中に組み込まれていて、不平等な権力、生活の権利として姿を現す。(ガルトゥング1969、171)
もし先ほど紹介した私の経験を、もっと大きな視野で見たらどうなるだろう。女性がスカートをはいて、化粧をしなければならないような構造、理論、歴史などが背後にあるのではないだろうか。私の周りの人が他の人に変わったとしても、あるいは私自身が他の個人に変わったとしても、ガルトゥングがいう暴力(私の例でいうと、生きづらさを感じる原因となった周りの雰囲気など)は、まだ続くのではないか。根本的な解決にならないのではないだろうか。
ガルトゥングが転機となり、私は対立の背景を掘り下げるようになった。


ボールディング(Kenneth E. Boulding)

ボルディングを学んだことで、私は平和という言葉を自分の中だけで考えていないかという問いを持つようになった。他者にとっての平和とは何か、それはどのようなものなのかなど。そしてボールディングの主張を通して、これらの問いについて、さらに考えを深めることが出来た。
ボールディングは、「解離的平和」(dissociative peace):世界に境界線を引き、その境界線で区切られたそれぞれの社会の違いを尊重することで平和を築くことが出来ると主張した。そしてこれらの社会は全て、社会契約(social contract)を結んでおり、それぞれの社会に属する人々はそれぞれの境界内の私有財産(private property)に合意しているというのだ。

青い線が境界線、青い丸がそれぞれの社会。
人々は境界線内での財産(private property)に満足している。
全ての社会が契約(social contract)を結んでおり、この構造に合意しているという。

つまり、これらの社会ごとに財産の格差が存在していても、それぞれの社会はそれに合意しているというのだ。さらにボルディングは続ける、もっと財産が欲しければ、金持ちになりたければ、境界線内で自分の仕事を全うすることだ。
でも、本当にそうだろうか。全ての人がこの社会契約に心から同意しているのだろうか。
ではなぜ、今も尚、争いが絶えないのだろうか。他の国から資源や土地を奪い合うのだろうか。境界線内で自分の仕事を全うすることで、お金持ちになれるというならば、どうして貧困に陥る人々が存在するのだろうか。
私自身、ボールディングの理論には賛成しかねるが、自分だけでなく他の人々にとっての平和とは何かについて考える機会を与えてくれた。そして、それを知るためには、他者と対話することが重要だとも教えてもらった。
ボールディングを通して、私の視野はますます広がったのだった。

ガルトゥングとボールディングを通して、私の視点はミクロからマクロへと移り変わっていった。次回からは、これを基に、私がどのように世界を捉えるようになったかについて紹介していきます!

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