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顔を覚えている男の話⑥

医学部にどうしても受からない彼のあとに付き合った医学部の彼氏の話。

医学部に入学したいために何浪もしてずっと合格できない彼のあとに、私は医学部の彼氏を作った。彼は両親も医者でお兄さんも医学部で、医者家系の息子だった。

細く切れ長の目で、笑うとしわができるタイプ。背がとにかく高くて、少し筋肉質なところもあった。黒縁の眼鏡をかけて、育ちの良さが全身から見て取れるような人。

大学のころ、みんなバイトをして生計を立てていたのに、彼は親からの仕送りで余裕の生活をしていた。新車に乗って、結構広い家に住んで、やっぱり余裕がある人は違うと思っていた。

学部もサークルも一緒ではなかったけど、入学してすぐの合同コンパみたいなので出会った。お互い特別惹かれあう感じもなかったけど、二人で会うことが増えてどちらからともなく付き合うことになった。

彼はいつも落ち着いているので、自分の感情をはっきりとあらわすことがなかった。好きとか大好きとかあんまり言われた記憶がない。

でも、なんとなく一緒にいて落ち着く。長い時間一緒にいても苦ではない。彼はそういう相手だった。

彼があまり自分の感情を出さないから、私は行きたいときに彼の家にいくようにした。いつの間にか自分の服を彼の家に少しずつ持って行って、化粧水とか下着とかそういったものを少しずつ増やした。

気づいたら彼の家に入り浸るような生活になって、彼と一緒に暮らすようになった。彼はいつも私も待っていてくれた。

彼は「いい」とか「嫌だ」とかそういったことは一切言わずに、私のいうことを何でも聞いてくれていたと思う。優しくて、やわらかくて、頭も良くて私も大好きだった。

でも、付き合って1年も近くなると、少し喧嘩も増えてきた。クリスマスの日に一緒にイルミネーションを見に行こうとしていたのに、私が用事を済まさなければいけなくなって、そのせいで渋滞に巻き込まれてイルミネーションに間に合わなかったことがあった。

彼はすごく不機嫌になって、イライラしていた。別に私を責めたりはしないけど、イライラしているのがよくわかった。

少し言い合いみたいになることも増えて、その度に二人できちんと論理的に話すように努力した。なぜイライラするのか、お互いどうしたらよかったのか、二人でよく話した。頭が良い人とは建設的な会話ができる。彼とはうまくいっている、そう思っていた。

でも、実はこの頃うまくいっていると思っていたのは私だけだったのかもしれない。

付き合って1年くらい経ったとき、彼が突然私にいった。
「好きな人ができたから別れてほしい」

頭を鈍器で思いっきり殴られたような衝撃がきた。人の言葉でめまいがするなんて想像もできないけど、このときは本当にめまいがした。信頼していた彼から別れを告げられるなんて。好きな人ができたなんて。仲良く付き合っていたのに、なぜ?いつから?私には理解できなかった。

彼は入学してすぐに運動系のサークルに入った。スポーツが好きなタイプだったから、授業終わりにサークルに行くことも増えていた。好きな人とはそのサークルにいたマネージャーの子らしい。別れてほしいという彼に、何も言い返せずにとにかく泣いた。久しぶりに自分の家に帰って、ものすごく泣いたのを覚えている。

好きで信頼していた人に拒否される、安心していた人から突然裏切られる。その辛さが初めてわかった日だった。自分は色々な人を傷つけてきたくせに、自分が傷つけられるとこんなにも辛いということを実感した。

でも、私はまだ彼のことが諦められなかった。諦められないというか別れなければいけないという実感がなくて、まだ彼のことが大好きだった。荷物は好きな時に取りに来てくれればよいといわれていたけど、取りにいくつもりもなかった。なぜならまた一緒に住めると信じていたから。

イメチェンしようと思って髪もばっさり切った。見た目も少し変えて、彼に振り向いてもらおうと美容院に行ったり新しい服を買いに行ったり、とにかく戻りたいという気持ちで必死だった。

そして、彼にもう一度告白して、もう一度振り向いてもらおうと思った。彼を大学のキャンパスにある駐車場に呼び出して、もう一度告白した。自分から告白なんて多分初めてで、好きとか戻りたいとかそういったことを伝えた。

でも、彼は「実は、もう彼女と付き合っているんだよね」といった。

私が彼と付き合えることを信じてイメチェンしている間、洋服を選んでいる間、彼は新しい彼女と新しい日々を送っていたのだ。また振られたときと同じように殴られたようなめまいがして、私は泣いた。泣きながら戻りたいといった。でも、彼は頭を横にしか振らない。

付き合っているときは頭を縦にしか振らなかった彼が、もう横にしか振ってくれない。「いいよ」とか「うん」とか、肯定しかしなかった彼が今は否定しかしない。彼の気持ちはもう私にはない。彼は私に対して、情とか気持ちとかなにもなくて、もう新しい彼女のことでいっぱいなんだ。いつから彼女が好きだったのか、私に何が足りないのか、色々聞きたいけど言葉が出ない。

何時間も車の中にいたけど、いよいよ諦めてさよならをした。荷物はいつでも取りにくれば良いからとまた言われて、本当に別れた。車の中で泣いた。運転ができないからずっと駐車場で泣いていた。

楽しかった思い出はうっすらとしているのに、彼に振られた時のみじめな自分を遠くでいつも見ているような感じがする。新しい服を着て、少し髪を巻いて、会う前は期待でいっぱいだったのに、全部意味がなかった。辛くて悲しくて、このときの感情は今でも忘れてない。

そして、しばらく落ち込んでいたけれど、少し段々と普通の生活ができるようになってきた。新しいバイトも始めて、新しい友達もできた。私も少し痩せて、髪も明るく染めて、少し変わっていった頃かもしれない。

別れてから半年くらい経ってから、彼から連絡がきた。「荷物を取りに来てくれない?」

彼のことはもちろん忘れてはないけど、私もサークルや新しいバイトで忙しくて、出会いもなかったわけではないから彼への執着もなくなっていた。「うん」とだけ返信して、彼の家にいった。

彼の家にいくと、彼は一人なのに、異様な空気が流れていた。男女が一緒に過ごした後の特有の匂い。分からない人もいるけど、私はよくわかる。ことを済ませたあとの部屋というのは、独特の匂いと雰囲気がある。

「さっきまで彼女がいたんだよね」
そっか。納得。彼女と仲良くしていたのね、別に嫉妬はなかった。ずっと一緒に過ごしていた部屋だけど、私がいたときとは違う雰囲気があった。私の服を入れていた衣装ケースの空間が綺麗になくなって、別の服が入っていた。もう私の居場所じゃない、そう実感した。

すぐに帰るつもりだったけど、彼は新しい彼女の話をしてきた。彼女は実家暮らしだから会いたいときに会えないとか、喧嘩しても論理的に話せないとか、彼女の不満をなぜか私に話してきた。

もうなんて返答したか覚えていないけど、私は少し嬉しかったかもしれない。嫉妬してないなんていったけど、やっぱり本当は彼が不満を私に言ってくることが少し嬉しかった。

彼は、「○○って変わったよね」といって私のことを見た。彼の中では別れたくない、好きだと言ったときの私の記憶で止まっているのだろう。でも私は彼に対してもう気持ちはなかった。部屋の匂いが余計に気持ちを薄くした気がする。

彼とはそれ以来会うことはなかった。私はそのあととんでもなく荒れた生活を送ることになったし、たくさんの人を傷つけることもしたけど、彼のことを思い出すこともなかった。

彼のおかげで、振られる辛さがよくわかった。自分の行い次第でどうにかなったかもしれないと後悔することも知った。世の中には自分の努力でもどうにもならないことがあることがわかった。

今、彼が何をしているかは全くわからない。医者になって、両親の病院でも継いでいるかもしれない。

ただ、今でも思い出すのは彼に振られたあとに、車の中で一人泣く私の姿だけだ。 

私の乗っていた小さい軽自動車の狭い車内。一緒に買ったCDケースが泣くたびに揺れる。梅雨のどんよりした雲。ハンドルに身体を預けて泣く私。私は泣いているいつかの私を今でも遠くから見続けている。


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