クリエイターが移住する町、御代田。普賢山落のはじまり | 前編
いまから半世紀以上前にもなる1962年頃より、東京の第一線で活躍するクリエイターたちが、御代田町塩野の普賢寺の土地に次々と家を建て、コミュニティを形成した。それが現存する普賢山落。その始まりとは、どんなものだったのか。
コミュニティの創成期から初期メンバーとして当時の空気を感じ、共生してきたアートディレクターの足立淳さんと、インダストリアルデザイナーの澤田勝彦さんの普賢山落のご自宅を訪ねました。
今回話を聞きに行ったのは、日用品のデザインとディレクションを手がける『SyuRo』というSHOP兼ブランドを営む宇南山加子さんと、プロダクトデザイナーの松岡智之さん。普賢山落が立ち上がってから60年が経ち、再び多くのクリエイターが御代田に移住している今、ふたりも縁あってこの地に根をおろしている。
今回会いに行った人
今回の聞き役
モノをつくる仲間たちの村を作りたい。普賢山落のはじまり
―普賢山落の土地とはどのように出会ったのですか?
足立淳:僕はアートディレクターをやっていたものですから、仕事で軽井沢に撮影に来たとき、一緒に来ていた写真家の大辻清司さんが「淳さん、おふくろが離山の麓近くの貸別荘で療養しているからちょっと寄って行っていい?」って言うから、ふたりでお母さんに会いに行ったんですよ。そしたらそこの貸別荘の主人が「毎夏こうやって来てくださるのはありがたいけど、どうせなら土地を探して別荘をつくればいいじゃない」と言ったことがきっかけになって、土地探しが始まったんです。だけど案内してもらった土地も気に入らなかったりして、なかなか進展しなかった。
そうこうしているうちに、御代田町の普賢寺が寺領地を貸したがっている、という情報が入ってきてね。普賢寺っていうのは禅寺なんで、檀家さんがほとんどいなくて経済的に困っていた。それで大辻さんと訪ねてきて、ここはいいねっていうことになりました。最初僕は大辻さんの土地探しに付き合っていただけだったけれど、だんだんとその気になってね。1962年のことです。
ー普賢寺の土地を見てすぐに気に入られたんですね。
足立淳:そうですね。それで僕と大辻さんと二軒で借りるよって住職に言ったら、そんなこと言わないで全部借りてくれって。1万3千坪ですよ。そんなに大きいの借りてもって言ったんだけれど、友達を集めて借りてくれよって言うんです。大辻さんと話し合った結果、土地全部を借りてモノをつくる仲間たちの村を作りたいね、ということになりました。それで、僕は僕で仲間を探して、大辻さんは大辻さんで写真家仲間に声をかけて、40人ほど集めました。一口300坪で、借地代は一坪60円。一軒あたり年間数千円でしたが、なにせ40軒なので相当な金額になったと思います。
―それで集まった仲間たちがそれぞれ家を建て始めるんですね。
足立淳:そうですね。メンバーでもあった僕の兄がたまたま日本総相互銀行に顔がきいたので、全員を紹介して小諸支店でお金を借りました。大した金額じゃないですが、それでそれぞれが家を建てて。夏だけ来る別荘村みたいな形になりました。当時の家ですから冬は寒くて来られなかった。
―その別荘村が”普賢山落”と名付けられたんですね。
足立淳:当時の御代田町長が命名したんです。不動産や開発業者は一切入っていないですし、村づくりにあたってはひとつずつみんなで相談して進めていきました。
澤田勝彦:村の経営にあたって「普賢山落の会」をつくって、会費を集めて水道、電気、道路をひいたりしたんですよね。
―普賢山落会の会員名簿を見ると、著名な芸術家など、錚々たるメンバーが名を連ねていて驚きました。
足立淳:メンバーはアーティストが多かったですね。当時の一流の写真家は全員メンバーに入っていましたね。大辻さんの仲間で、秋山庄太郎とか、まだ家が残っていますけれども、中村正也とか、オリンピックの写真を撮った早崎治とかね。
澤田勝彦:淳さんが誘ったのは、柳宗理さんや水尾比呂志さんとかですよね。
足立淳:デザイナーとか、文筆家とかそういう人が多かったね。柳宗理さんは芸大のデザイン課の先輩で、アルバイトで手伝ったりしたご縁がありました。澤田くんも同じ芸大で、ぼくはグラフィックデザインのほうで、澤田くんはインダストリアルデザイナー。卒業後は、彼はトヨタ系の会社に入社して。当時自動車会社がデザインがよくないと車は売れないっていうことにやっと気がついて、一挙にデザイナーを増やそうとした時期でした。ですから、芸大のデザイン課のインダストリアルデザイナーの連中はほとんど自動車会社に入ったんですよ。
―当時みなさんはどれぐらいの世代ぐらいだったのですか?
足立淳:大体が40代でした。ぼくが一番下の代で、30代。当時僕は東京の公団住宅に住んでいて、持ち家がないのに、別荘だけはできたの。それで、会員でもあった邱永漢っていう小説家が「本宅もないのに別荘があるなんて、本妻がいないのにお妾さんつくるみたいだねって」僕をからかってね(笑)。
―今このあたりはカラマツが多いですが、当時の環境は?
澤田勝彦:カラマツはあまりなかったと思います。僕が初めてここに来たのは、淳さんに連れられて誰かの地鎮祭を見に来たときだったのですが、八ヶ岳はよく見えるし、浅間も見えた。だから木々も低かったんでしょうね。上の大辻さんの家はちょっと引っ込んでいるんだけれど、風呂場から浅間山がみえるよって自慢していましたよ。今は全く見えないですから。当時は今のような森ではなかったですね。
―町役場とはどんな関係性だったのですか?
足立淳:当時の御代田町の役場では、軽井沢に負けじと別荘村を作ろうっていう動きがありましてね。そこに普賢山落ができたから応援をしてくれていました。役場は、後に雪窓湖の方に別荘地を作りましたね。
今も大事に継がれているのは、子どもを大事にしてきたから
―普賢山落の歴史の中で一番大変だったことは?
足立淳:1968年のある時突然、見知らぬ男が訪ねてきて、この土地全ては我々の所有なったので、山落から全員立ち退いてくれと通告があったんです。どうやら普賢寺の住職が、普賢山落の土地を抵当にして新宿の右翼の高利貸しから借金をしていた。でも借金が返せなくなってしまったので、高利貸しに土地の所有権が移転したという話でした。すぐにみんなで集まって話し合いが行われましてね。放っておこうかっていう話もあったんですけれど、後腐れがあると嫌ですからね。この際土地を購入して、借金の代わりをしてやろうということに決まりました。それで全会員からお金を集めて、高利貸しさんに会ってお金を支払いました。一軒30万円ぐらいでしたかね。でも40軒ですから。高利貸しはうっかりすると、取りっぱぐれるところだったから喜んでいましたけれど、お寺は寺領を失っちゃった。この騒動は大変でしたね。
そのために最初は借地だったのが、ひょんないきさつで土地を買うことになった。会員たちは思いがけず土地がそれぞれのものになり、それが今もずっと続いているんです。
―どこの別荘地も世代交代が進んでいると思いますが、普賢山落ではどうですか?
足立淳:50年60年経つと、最初に声をかけたメンバーもどんどん亡くなりました。息子の代、中には孫の代の人たち、二代目三代目と継いでいかれています。ですから今は若い人のオーナーが多くなってきているんです。というのも、初代のメンバーがとても子どもをかわいがったんですね。だいたいが子ども向けにつくった別荘でしたから。ここはね、涼しいのがとりえの場所なんですけれど、当時東京でもクーラーがある家なんてなかったですからね。夏休みはずっとここにいて、友達もできて、涼しいから年寄りも元気になるし、そういう効果があった場所なんです。それにメンバーがアーティストが多かったせいもあるんですけれども、遊び好きでしてね。毎夏いっぺんずつお祭りと称して、どんちゃんさわぎをやったりね。ねぶたをつくって夜こどもたちが持ってぐるぐる周ったりして。
澤田勝彦:みんなで料理を持ち寄ったり、かき氷がでたりね。大人は酎ハイからビールから飲み放題(笑)。椅子取りゲームやったり、綱引きやったり、楽しかったですよね。
足立淳:子どもたちを喜ばせることを主に考えてお祭りをやっていたもんですから、今の二代目三代目が非常に村を好きになってくれて、今も大事に後を継いでいってくれている。同じような組織が他所にもありますけれど、子どもをあんまり喜ばせなかったところは後継がなくて困っていると言って、代表がわざわざ見にきましたよ。普賢山落は喜んで後を継いでいるって言ってね。そのくらいね、とにかくこどもを大事にしました。祭りも、一昨年、去年とできませんでしたけれど、今年はまたやれるといいですね。
後編「クリエイターが移住する町、御代田。ここで循環型の暮らしをつくりたい 」も読む
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(文・写真)manmaru(編集ディレクション)村松亮
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