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寛容とは、白黒つけずに余白を残しておくこと

「あなたが大人になったと実感したのは、どんなときでしたか?」——昔、あるテレビ番組で司会者がゲストにそう質問するのを聞いて、はて、自分の場合はそれがいつだったかと記憶をたぐり寄せてみた。そうして頭に浮かんだのが「白黒つけるより大事なことがある」と悟ったときのことだった。

学生時代、大切な友人を激怒させたことがある。その理由は私の正義感の押しつけにあった。その人のためと考え、非を打ち、自分が正しいと思うことを突きつけた結果、相手は逆上した。今思えば「逆上した」というより「逆上するしかなかった」のだろう。それくらい追い込んでしまった。

今考えてみても、私が言ったことはおそらく世間一般的には正しかったと思う。しかし「相手のために」と押し付けたその正しさは、結局のところ誰のためにもならなかった。その局面で必要だったのは「正しい」とか「正しくない」とかを明らかにすることではなかった。

苦しいときに逃げ場がなければ、人は行き所をなくしてしまう。白か黒かと詰めることに執着せず、ときには空きマスのまま残しておけばいい。厳しくとがめたり自らの正解を押し付けたりすることより、相手の思いやその状況に至った背景に目を向け、より良い方向を一緒に模索することの方が大事だったのではないか——後になってそんな心情をもてた自分に大人を感じたような気がする。

今や世の中の様々な媒体から聞こえてくる白黒談義は、加熱の一途を辿っている。人の失敗や過失、異質な他者を放ってはおけない。一つの出来事を機に、寄ってたかって白黒つけようとする風潮に皆が「明日は我が身」と戦々恐々だ。

「もう時効だけどね」——思えばそんな言葉ももう有効とは言えない。誰にも一つや二つはある過去のしくじりや傷もそう言って済ましてきたが、今は「もう時効などない」と感じる。何かをきっかけにあっという間にえぐり出される過去やプライバシー。法的制裁より社会的制裁の方がよっぽど恐ろしい。そんな時代を私たちは生きている。

失敗しないように、間違えないように、恐る恐る生きねばならない社会に成長はないことくらいほとんどの人が分かっている。人は生きていく中で何度も失敗するし間違いを起こす。例に漏れず自分もその一人であるということも知っている。目の前のあなたと私は違う人間だということも。不寛容な社会に窮屈さを感じ、寛容を求めているのに、自らは寛容になれない不思議。

かく言う私も「寛容」でありたいと思っている。しかし、自分に余裕がなかったり自信がなかったりすると、人をさげしむことで自らの心の安定を保とうとする内なる人間の性(さが)がひょっこり姿を現す。出てきて欲しくはないんだが、自分が弱ると出てくる、まるで帯状疱疹のようなヤツ。きっと誰もが持っている不寛容の種。この種が芽吹かないようにするにはどうすればいいのか。結局のところ、周りがどうこうよりも、自分のコンディションを整えることが大事なんだなと思っている。

私が「寛容」でいられるには、私自身が幸福であることが重要みたいだ。幸福とは何か。自分が満たされていること。日々に満足できて楽しく過ごせること。自分の身に起きる全てをコントロールすることはできないから、せめて自らコントロールできる部分について舵を取る。健康に気を遣い、継続可能な塩梅で暮らし、日々の生活の中に楽しみを見出す。自分の機嫌は自分で取れるように。

「寛容」が必要な場面で、いつも思い出すエピソードがある。

知人の仲間内に二十歳を過ぎたばかりの女性がいた。とてもいい子でみんなからかわいがられていたのだが、彼女が好きになった男がなかなかのならず者だった。
ある日、彼女がその彼を追って地元を出ていくと言い始めた。「ロクなことにはならない」とみんなが大反対し、彼女の説得にかかった。どれだけ止めても彼女は「行く」と言って聞かない。彼女の行く末を案じて引かない仲間たち。平行線の末に、それまで口を開かなかった親分肌の男性が、彼女のいないところでみんなにそっとこう言った。「それ以上言うな。帰ってくる場所がなくなる」

彼女の人生を尊重し、白黒つけずにいつでも帰ってこられる余白を残しておく。
はぁ〜THE寛容メン。「サウイウモノニ ワタシモナリタイ」って思ったんだよな。

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