ひとやすみ 『家事は大変って気づきましたか?』

 昭和中期の鹿児島の農村を舞台に、昭和5(1930)年生まれのミヨ子さん(母)を中心に庶民の暮らしぶりを書いている。このところは、先ごろ久しぶりに帰省し、ミヨ子さんに会ったときの出来事などを綴ってきた。

 本項ではひとやすみして、最近読んだ本 『家事は大変って気づきましたか? 』(阿古真理著、亜紀書房刊)について。本書の発行元のサイトに掲載された書籍紹介にはこうある。

──時代が変わっても、家事はラクになっていない!
なぜ家事は女性の仕事だったのか?
明治から令和まで、家事と仕事の両立を目指してきた女性たちの歴史、それぞれの時代の暮らしと流行を豊富な資料で解き明かし、家事に対する人々の意識の変遷を読みとく。

 労作、というのがいちばんの印象だった。家事という身近すぎて見過ごされてきたテーマ、視点から、背景となる時代と暮しをていねいに紐解いている。女性史であり庶民史でもある。

 文字を持たなかった、つまり自らの言葉で経験や意志を伝える術も機会もなかった周囲の人々、例えば家族、まずは母親であるミヨ子さんに光を当てたいと思いnoteを始めたわたしの動機とも重なり、とても興味深く、しばしば共感しつつ読んだ。

 本書はジェンダー論でもあろう。家事は体よく女性がやらされてきたという主張は、概論では首肯できる。その根本原因は「資本主義」にあるという結び(第6章 ケアと資本主義)にも納得する。逆に言えば、貨幣が経済の中心にあり、効率と利益が優先される社会において、可視化されにくく貨幣的価値に直結しにくいケアが重要視されないのは自明だ。

 加えて――これは本書以外でも指摘があるが――ケアは「誰でもできるもの」「家事の延長」という考え方から、社会的にも経済価値的にも、初めから不当に低い地位に置かれていまに至っている。

 そして、その目に見えずお金にならないケアを男性が女性に押し付け、あるいは女性によるケアというバックアップを男性が全面的に享受してこられたから、日本の高度経済成長があった。問題は、そのことを男性、とくに指導者(政治・財界・経営などなど)の多くは意識してこず、いまも意識が希薄であることだろう。

 ではその解決は、というと簡単ではなさそうだ。男性優位の制度設計が基本なのだから当然だ。女性にしても、いまの仕組みのほうが楽な部分もある。しかし、日本がこのままでは立ちいかないことも明白だ。なにより、いまの制度設計は若い世代にさまざまな負担を押し付けており、それゆえに若い世代は人生に希望や楽しみを感じにくくなっている。少子化の原因もそこにこそある。

 ところで、ジェンダー論として読んだ場合の疑問が残った。「第2章「家事=妻の労働」になったのは昭和時代だった 6 農家の女性たちの生活改善運動」に、「奴隷状態だった農家の嫁」(p104-105)という記述があり、農家の嫁がいかに虐げられていたかが他の文献から引用されている。出典を確認していないので断言は避けるとして、その文献がどんな視点から書かれ、事実関係やインタビューをどんな視点で整理(採用、削除)したものかによって、真実は異なってくるのではないだろうか。

 例えば自分の母親(ミヨ子さん)は、たしかに自分の意見を言う場がほとんど与えられなかったし、傍目からは「ただ働くだけの人生」だったかもしれない。本人すら「何も楽しみはなかった」と言ってもいる。

 しかしそれが生活の全てだっただろうか。季節の行事を共同体の人びとと分かち合ったり、子供の成長に目を細めたりする喜び、楽しみはどう評価すればいいのだろう。彼女たちの働きは「奴隷」として搾取されただけでなんの対価もなかったのだろうか。日々の暮しや仕事に主体的に取り組む部分は皆無だったのだろうか。

 もっと言えば、農村の男たちは搾取する側として安楽を享受していたのだろうか。彼らの中にもヒエラルキーがあり、底辺で十分に食べられない暮らしに甘んじていた人も多かっただろう。一方で「男」「家長」というプレッシャーから逃れる術は、一生なかったはずだ。

 わたし自身は、階級主義的な視点に立つことには慎重でありたいと思っている。



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