文字を持たなかった昭和 二百二十五(暖房その四、火鉢)

 昭和30~40年頃の鹿児島の農村。母ミヨ子が嫁いでから下の子の二三四(わたし)が幼かった頃の農家の暖房事情として、囲炉裏について書いた(囲炉裏囲炉裏端囲炉裏端にて)。もちろん囲炉裏は暖房のためだけにあるわけではない。そもそも部屋全体を暖めることはできない。

 一方火鉢は、「暖房」とまでいかないが、明らかに暖を取るためのものである。

 火鉢は家に二つあったと記憶する。ひとつは、レトロと言えばレトロ、古臭いとも言える古典的な、丸っこい白地の陶器のものだった。表面には青色で山水風の景色が描かれていた気がする。直径は30センチ近くとやや大ぶりで、女性が持ち上げるには力がいった。こちらは舅の吉太郎や姑のハルが使っていた。

 もうひとつは全体は八角形のようなデザイン、色も臙脂色の地に青い釉薬がかかっているような、モダンな色合いだったので、かなりあとになって買い足したものではないかと思う。レトロな火鉢より小ぶりで軽かった。こちらは「若夫婦」つまりミヨ子と夫の二夫(つぎお)用のつもりが、持ち運びのしやすさから、置く場所を決めずに使っていた。

 火鉢の「火」は炭火である。炭を自家製することははなかったが、竈で煮炊きし、薪で風呂を沸かしていた頃は、「消し炭」と呼ぶ炭を比較的手軽に作れた。というより、吉太郎たちの世代は、生活用品のほとんどは手作りで賄っており、炭ごときにお金を出す発想はなかった。

 竈や風呂で薪を焚くとき、燃えさかっている状態の木片を蓋つきの甕に入れて「消し炭」にして集めておく。使うときは「火起こし」と呼ぶ、把手のついた鍋のような入れ物に入れて、竈に乗せて火を点ける。火が移ったら火鉢に移すのだ。

 火鉢の前にじっと座って火に当たるのは、生産的な行動とは言えない。あくまで二三四の記憶だが、火鉢に当たっているのは、隠居暮らしのお年寄りかほんの小さな子供だけだった。働き盛りの二夫や、ミヨ子のような嫁はもちろん、走り回れるようになった年齢の子供も、火鉢に当たるのは「おじいさん、おばあさんとお話をするとき」ぐらいのものだった。冬に家の中で縮こまっていると「子供は風の子、外を走れば暖かくなる」と追い出されるのが常だったのだ。

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