文字を持たなかった明治―吉太郎68 終戦後

 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。

  昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には、尋常小学校を卒業したら百姓の跡継ぎとして仕事を覚えてほしかったのに、高等小学校のみならず上級の農芸学校へ進んだ。昭和19(1944)年、あと1年足らずで農芸学校を卒業するはずの二夫は、両親に黙って陸軍の少年飛行兵に志願、入隊した。吉太郎夫婦が、重要な働き手でもある跡継ぎの安否がわからないまま農作業に精を出すうちに、日本は終戦を迎えた。

 終戦直後の吉太郎たちの暮らしを直接知る手立てはない。孫娘の二三四(わたし)も、その時期について吉太郎や妻のハル(祖母)からはおろか、のちに二夫の妻となるミヨ子(母)をはじめ、周囲の大人たちから聞かされた記憶もない。まだ子供の二三四に、戦争や終戦直後の話をしても理解できないと思ったのかもしれないが、二三四の物心がついた昭和40年代前半、終戦から20年以上が経ち、いわゆる高度経済成長に国中が酔う中、あの苦労した悲惨な時代のことをことさらに話す気にもなれなかった、というのが本当のところではないかと思う。

 おとなしくて聞き分けのよい――と思われていた――二三四は、大人たちの座の隅で静かに話を聞く機会も多かったが、大人たちが戦時中や終戦後のことについて語るのを聞いた記憶がほんとうにないのだ。

 ただ、ミヨ子が二夫との結婚の経緯について語ったとき、「戦争のすぐあとは(食糧増産で)農家はもてはやされたからね」という趣旨のことを言ったのだけは印象に残っている。

 そう、国土が荒廃し、人口が減少、とりわけ若い男手が極端に不足していた。国は実質的にアメリカの支配下にあり、法律も制度もどんどん変わっていく。ついこの前までの当たり前が、根底から覆された。そんな混乱の中でも人々は生きていかねばならなかった。

 幸いと言うべきだろう、吉太郎たちの土地は残った。空襲の被害もほとんどない。これまで――極端に言えば、吉太郎やハルが生まれから身に着けてきた百姓仕事を、同じように繰り返すだけでよかった。作っただけ売れたし、国も世間も「もっと食糧増産を」と呼び掛けていた。

 つらいのは、相変わらず人手が足りないことだった。家によっては、出征した息子が戻ってきていた。もちろん戻ってこない、つまり戦死したか、安否が不明のままの者もいたが、誰それの家の息子が帰ってきた、と聞けば吉太郎もハルも羨ましく思わないわけにいかない。ハルは朝晩お仏壇に二夫の帰りを祈り続けた。

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