感情を取り戻す

小さい子どもの頃は、自分の感情に素直だった。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、自然と当たり前に表現していた。
幼い頃の写真の私は、面白いくらいに、とても表情豊かだ。全身を使って感情をおもいきり表現している。感情を表現することに、なんの躊躇も感じられない。

でも大きくなるにつれて、周りの人達の反応を恐れて、"おとなしい、いい子"を演じようとして、感情を抑え込むようになり、感情を表現することをためらうようになっていった。
そして、いつのまにか感情を感じたり、表現することを悪いことだと考えるようになっていった。

感情を抑え込む訓練を長年続けていると、感情を抑え込んでいるという感覚すら薄れてしまった。

自分の感情がよくわからない。
そんな状態になると、自分は何が好きで何が嫌いかもわからなくなった。
だから、自分で何も決められない。
何か決めないといけない場面になると、世間一般の常識やメディアから流れてくる価値観、身近な周りの人の意見を判断基準にして選ぶ。
「あなたは何がいいの?」と聞かれると、
「わからない」「あなたが選んだのと同じので」「なんでもいい」そんな言葉が口癖になってしまった。

感情を抑え込むようになってからの写真の中の私を見ると、不自然な笑みだったり、ほぼ無表情なんだけど なんか悲しそうな苦しそうな怒ってるような、感情がはっきり読み取れない微妙な表情をしている。
ただ明らかなのは、幸せそうではないということ。

変わらない毎日の中で感じるのは、ちょっと嬉しいとか、なんかつまらない、なんか嫌だなという感覚くらい。大きな幸せも感じられないけれど、大きな絶望も感じない。

「ちょっとした幸せを大切にすることが大事」というような言葉を聞いたことがあった。
私は それを、おそらく本来その言葉が表す意味ではない、「今私が感じているくらいのちょっとした幸せで我慢すべきなんだ。贅沢言っちゃダメなんだ。もっと苦しんでいる人だって山ほどいるんだから」というような歪んだ受け取り方をした。

たくさんの物や人、環境にも恵まれていて、不幸だとは思わない。むしろ幸せだなと思う。
でもその"幸せだな"というのは、溢れてくる感情ではなく、頭の中の「私は恵まれているんだから、文句を言ってはいけない、感謝すべきなんだ」という思考からくる言葉、ロボットのような淡々とした感じの言葉でしかない。
幸せだなと"思う"ことはあっても、幸せを"感じる"ことはあまりない。

でもあるとき、ずっと見て見ぬ振りをしていたことに向き合わざるを得なくなったことで、私の人生が変わり始めた。

私は、母や兄と過去のことを話している時、母や兄が話す記憶と自分の記憶に相違があると感じることがよくあった。
例えば、誰がどうしたという内容の"誰が"の部分が、違っていたり、私が出来事自体を覚えていなかったり、という感じで相違があった。
記憶の相違を感じる時の、母や兄が話す記憶の内容は、たいてい 私が感情を爆発させて、ものすごく怒っていたとか、拗ねていたとか、泣いていたという話だったので、私はいつも嫌な気分になっていた。
私はいつも感情をコントロールできているという自信があったから。
どっちの記憶が正しいか口論しても、確かめようがないし、お互い譲らないし、いつも疲れ果てていた。
「なんで母や兄は、嘘をつくんだろう。なんでいつも私を悪者にするんだろう。自分がいい人でいたいから、私のせいにしているんだろうな。」と思っていた。

でもだんだん 記憶の相違が、母や兄との間だけでなく、親戚や会社の人との間でも起こってくるようになった。もしかしたら本当に私の方が記憶を改ざんしたり、記憶を消し去ったりしてしまっているのかもしれないと疑い始めた。

私の記憶に残っていないから、私は自分の感情を完全にコントロールできていると思っていたけれど、実は、ずっと抑え込んできた感情が何かの拍子に爆発して、家族の前だけでなく、外でも私は感情をぶちまけてしまっているのかもしれない。
記憶がないのは、爆発した感情に乗っ取られて、自分が見えなくなってしまうからなのか、感情を抑えられなかった自分を受け入れきれなくて、無意識的に記憶から抹消しているのかもしれない。
もしかすると今まで自分が気づかないうちに、感情を爆発させて完全に取り乱してしまっているみっともない自分を他人から見られたかもしれない。
もしかするとそれによって周りの人たちを傷つけてしまったことがあるのかもしれない。
このままでは、この先も自分が気づかないうちに、感情を爆発させ感情に飲み込まれた自分が誰かを傷つけるかもしれない。
そう思うと、ものすごく恐くなった。
自分の感情に真剣に向き合わざるを得なくなった。

あるとき読んだ本に、①感情→②思考→③行動という風に、思考が浮かぶ前には必ず感情がある。というようなことが書かれていた。
感情を感じないようにしていると、実際には1番最初に感情が起こっているんだけれども、2番目の思考からしか認識できなくなっていくらしい。
まさに、私はその状態になっていた。
思考より前にあるはずの感情を感じてみようとしても、認識できなかった。
訓練すれば、また感情を認識できるようになるということだったので、自分の感情を感じとるように意識して過ごすようになった。

特に抑え込みがちな負の感情も、喜びの感情も、どんな感情も感じることを自分に許可して、感情を感じている時の身体の感覚にも意識を向けて、自分が感じていることに注意深く過ごしていると、だんだんと自分の感情や身体の感覚を認識できるようになってきた。
感情だけではなく、身体の感覚も感じないようにしていたことには気づいていなかったから驚いた。

はっきりとした感情や身体の感覚だけでなく、わずかな違和感や不快感、心地よさ、ふわっと軽くなるような感覚、ぎゅっと縮こまるような感覚といった繊細な感覚にも気づけるようになってきた。

すると、今まで世間一般的な考え方やメディアから流れてくる価値観、周りの人の意見を基準に選択してきたものに、自分が実は違和感や不快感を感じていることにも気づけるようになった。

自分がどう感じているか認識できるようになることで、自分の中に、選択する時の判断基準を取り戻すことができた。
何を選べばいいかわからないということもなくなった。自分がより心地よいと感じるものを選ぶという選択基準ができたことで、自分の人生が細部にわたって心地よいものになってきている。
過去に自分の外側を基準にして選んだものを、再度 選択し直すことができる。
そして、この先も毎瞬、今ここの自分がより心地よいと感じるものを選択していくことができる。

これって幸せが保証されたようなもの。
心地よく感じるかを基準に、頭の中の思考も、物も行動も毎瞬選択していけば、幸せにならないわけがない。不幸になり得ない。

ただ、いつも自分の選択に意識的でなければならない。

特に思考は、目に見えないから、心地よくない思考を掴んでしまっている時に、心地よい思考に選択し直すことをすっかり忘れて、次から次へとやってくる不快な思考に飲み込まれてしまいがち。

長い間、感情はトラブルを引き起こすから感じない方がいい、表現してはいけない、感情というのは厄介だ、と思い込んできた。
でも、いろんな人たちが本やインターネット上などで発信してくださっているメッセージや自分の中で今まで起こってきたたくさんの気づきを通して、"感情"というのは、今 自分が選択している思考や物や行動が、自分の魂が望む本当の幸せから、近いか遠いかを知らせてくれるかなり繊細で高性能なセンサーなんだということを知ることができた。

これからは、"感情"という高性能なセンサーに感謝して、ありがたく感情からのシグナルを受け取り、大いに活用して、いつでも本当の幸せを選択する人生を歩んでいきたい。

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