愛の在り方を選びたい
親、兄弟、友達、恋人、身近な存在、大切な存在であればあるほど、互いに理解し合いたいという気持ちが大きい。
理解し合えば、お互いに幸せでいられると信じてきた。
そして、理解し合うことに執着してきた。
だから、相手に自分のことをちゃんと深く理解して欲しくて、相手が自分のことを深く理解してくれていると感じられるまで、ついついしつこく自分のことばかりを繰り返し話し続けて、なかなか理解してくれないことにイライラしてしまう。
逆もそう、相手を理解しようとして、質問攻めして、それに答えることをつい強要してしまったり、相手の考え方が理解できないと、つい自分の考え方の正しさを相手に押し付けて、相手を変えようと躍起になってしまったり、そしてあとでそんな傲慢な自分、エゴイストな自分に気づいて自己嫌悪に陥って、自分を責めたりしてしまう。
結局、自分も苦しんでいるし、相手も苦しめてしまっている。
「お互いに幸せを感じられるように」というのが目的だったはずなのに、いつのまにか理解し合うことに重きを置きすぎて、自分と相手の自由を奪っている。
私の場合、理解することだけでなく、「理解すること+同じ状況で同じように感じること」を自分にも相手にも求めてしまっていたことに気づいた。
人それぞれ生まれ持った特徴、趣味嗜好、嫌悪する対象、生まれてきてからの経験や傷、トラウマも違っていて、みんなそれぞれのフィルターで世界を見ているのだから、ある程度の理解までは可能だったとしても、完全に理解し、同じ状況で同じように感じるということは無理なことだと気づいていなかった。
それに気づけたことで、完全に理解し合うことはできないこと、同じ状況で全く同じように感じることはできないことを認め、理解し合えない状況をある程度は受け入れられるようになった。
それに、私は苦しみたいわけでもないし、相手を苦しめたいわけでもない。争いたいわけじゃない。
私の本当の望みは、私が自由で幸せや心地よさを感じていられること。
だから、私自身だけでなく、私にとって大切な相手にも自由や幸せや心地よさを感じていてほしいということ。
愛の在り方を選びたい。
そのためには、自分の自由と相手の自由を認めて、違いを認めて、自分もそのままでいいし、相手もそのままでいいと許すこと。
相手の考え方や感じ方に同意、共感できなくてもいいから、ただ相手がそう考えていること、そう感じていることを知り、認め、受け入れる。
同じように自分の考え方、感じ方も否定せず、認め、受け入れ、許すこと。
ただ、理解し合えないことってやっぱり悲しい...。
周りの大切な人達から、自分の考え方や感じ方に同意や共感をしてもらえないことに孤独を感じる。
でも、フォーカスするところを変えれば、今までに感じたことがないくらい分かり合えた感覚になれることに気づいた!
それは、感情。
どんな状況でどう感じるかは、人それぞれ違うけれど、それぞれの人生の中で、みんな同じように喜びや恐れ、悲しみ、怒りといった感情を感じているということ。
そこにフォーカスすると、全ての人と繋がったような、分かり合えたような感覚になれる。
例えば、家族と話していて、お互いの考え方が違っていて、バチバチに言い争いになってしまうとき、考え方はそれぞれ違っていても、相手にわかってもらえないという苦しみという点に置いては、お互い同じように感じている。
「今 私がわかってもらえなくて苦しんでいるように、相手も私にわかってもらえなくて苦しいんだ。」と
そこに気づき、フォーカスすることで、自然と相手におもいやりを抱けるようになる。
わかってもらいたいという執着を手放しやすくなる。
例えば、自分が平気なものに対して、相手がすごく怯えていて、ついイライラしてしまうとき、「私にも怖いものがあって、それに遭遇したときに恐れの感情を抱くように、今 目の前の相手も、私とは恐れを抱く対象は違うけれど、私と同じように恐れを感じているんだ。」と、そこに気づき、フォーカスすることで、心が穏やかになる。
みんな持ってる感情の部分、共通する部分にフォーカスすることで、愛の在り方を、選びやすくなる。
理解し合えなくてもいいや、違っていてもいいやって、いい意味で諦めがついて、心が軽くなる。
どんな自分にも、どんな相手にも、どんな状況にも、愛の在り方を選択したい。