真島昌利にノーベル文学賞を

アメリカがなにやらゴタゴタしている今日この頃。大統領の力とはなんぞや、ということを考えさせられる日々。移民や外国人のみならず、原住民にも弾圧行為を働いているという。ものすごく嫌な気持ちになる。

一連のアメリカに関するニュースを見るたびに、頭の中でブルーハーツの「青空」が流れる。

私は大のオバマファンだった。人種の壁を破って人々の支持を得た、という事実だけでもかっこいいし、裏にどんな大人の事情があろうが、「アメリカの大統領」としてノーベル平和賞を受賞し、その期待に応えるべく世界平和について国政の面でも、外交の面でも尽力していた姿がまさしくヒーローだった。惜しくも志し半ばで任期を終える、というような印象の最後であったけれど、世界に向けて「志」を貫こうとした姿勢は賞賛に値するものだと思う。

対するトランプ大統領は、「America first」を声高に叫んでいる。言いたいことはわかる。国家とは国民の利益および幸福を守るために存在している、そんな考えのもと「America first」というスローガンが出てくるのはわかる。ただ、「国家」のあり方というのは、定義し直す必要があるのではないだろうか。冷戦以降、同一国家の中における民族紛争がこれだけ起きている(宗教もしかり)のだから、さらには国境もどんどんボーダーレスになってきているわけだから。

本日夕刊のニュースによると、フランスでも大統領候補のルペン氏が「自国優先」との公約を発表し、EU離脱や移民排斥に踏み込む意気込みを見せているらしい。イギリスは、言わずもがな、移民流入を恐れた「国民」による投票でEUを離脱した。

日本は移民の受け入れもすこぶる消極的だし、島国だからか「異文化共存」ということにかなり疎いと感じる。よそ者が自分たちの常識になじまない行為をしていると、すぐに目くじらをたてる。差別もする。異質なものを排除しようとする力が、直接何かをするわけでもなく、ただ人の殺気の塊のような大きな何かになって異物に襲いかかる。それは、「青空」にある「生まれたところや、皮膚や、目の色」だけでなく、「生まれた家庭環境」や「学歴」や「趣味嗜好」「言動」あらゆるところに発生している気がする。

だから、最近の欧米の動向を知っても、ピンとこないのかもしれないし、あるいは「移民に仕事取られちゃそりゃねぇ、、、」というような共感すら覚えるのかもしれない。

トランプ氏の言う「テロを未然に防ぐための入国制限」という考え方も、「国家」単位で考えると相当奇抜な大統領命令であるが、日本の国内では同じようなことが「普通に」行われている。高校の文化祭では、「金髪の方ご入場をお断りします」だとか、外国人お断りの温泉が訴えられたり、見方を変えれば、公園での球技や花火の禁止、空き地への立ち入り禁止、プリクラコーナーへの男性のみでの入場禁止など、「危険を未然に回避する策」はあらゆるところで採用されている。

もちろん、これら全てが悪いわけではないし、危険はできるだけ少ない方がいい。ただ、「制限による危険の回避」を続けていけば、そこに「自由」はない。なぜなら、「自由」にはある程度の危険がつきものだし、なによりそのような対処量法的な措置では、「危険なこと」の根本原因を解決したわけではないからだ。

「危険」が潜んでいるなら、その「危うさ」そのものが何に由来するのか、どこをどうすればその「リスク」が消滅するのか、あるいは軽減するのかを考えるべきだと思う。

トランプ大統領は、密かにテロが起きるのを待っている気がする。今テロが起きれば、彼の言ったことは正しくなる。今テロが起きれば、「America first」の機運は高まる。だからテロリストの皆さん、今だけはやめた方がいい。そして、今やめておかないと人々の考え方は変わらないし、一層世界はギスギスすると思う。

こんなはずじゃなかっただろ。歴史が僕を問いつめる。まぶしいほど、青い空の真下で。

そんなことを考えていたら、青空の歌詞が予言じみていて少し怖い。

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