感受性は死ぬのか?
私が一番楽しんで文章を書いていたのは、20代の10年間だ。30歳で子どもを産んで、しばらくはランサーズとかでちょこちょこゴミクズみたいな記事を書いて小銭を稼いでいた時期もあるけれど、なんだかんだ、30歳をすぎてからは、自分で面白いとおもえるような文章が書けなくなってきた。子どもを産んだからなのか、仕事が軌道に乗りはじめたからなのか、年を取って感受性が死んだからなのかはよくわからなかった(というか考えもしなかった)けれど、とにかく書けなくなった。
別に、文章が書けなくなったからと体制に影響はない。だって私は文筆家でも小説家でもライターでも記者でもない。ただの国語の教師だから。でも、面白いとおもえる文章を書けなくなったことは、どういうふうにかはうまく説明ができないけれど、私の中で「何か」が終わった感じがする、というか、人間的な「退化」を感じさせた。
今日、ふと昔のmixiの日記を読み返したら、今読んでも面白い文章がてんこもりで、それはただ「文章が巧い」(つまり、”書く”のが巧い)というよりも、日常生活に対する着眼点がすばらしかったんだなと感じた。些細なことにも目を向けて、ただ視界を流れていくのではなく、一瞬しっかりキャッチして考えて、自分の中で「意味」を見つけることができていた。
これを、「感受性」と呼ぶのであれば、今は感受性が死んでしまっているのかもしれない。そして、よくよく考えてみると、感受性が死ぬってことは、「精神的な若さ」を失うってことなのでは・・・?
40歳がもうすぐ目の前、そこまでやってきて(厳密にいえば40歳がやってきたのではなく、自分が40歳に向かって近づいているだけ)、今更周りの世界に一喜一憂してらんねーっすよ、という自分が心のどこかにいるのかもしれない。あるいは、こっちはもう少し切実な説だけど、単純に記憶力が低下して、その瞬間は心を動かしているけれど、3歩歩くとすべてを忘れる生き物a.k.a.私だから、家に帰るころには「疲れた」という感情しか残されていないのかも。せっかくなら「疲れた」さえ忘れさせてくれればいいのに。あとは、仕事も軌道に乗って、生活も安定して、心に引っかかるような出来事があまり起きていない説もある。
とにかく、この死んだ感受性を復活させたい。感受性が復活すれば、きっと人生の後半戦に活路を見出せるはず!とりあえず、「あの頃」と今で大きく違うことは日記を書かなくなったことだな。ほぼ日の5年日記を3年前ぐらいに買って、最初の1年は1月の15日ぐらいまで書いたけど、あとは年に2日ぐらいしか書いていないので、ぼちぼちまた始めるか。そして、超絶時間泥棒のスマホを追いやる。これは、物理的に持ち歩かない(家の中では)とかしないと難しい。なんか知らんけど、すぐネットショッピングして私の口座からお金をぬきとる悪魔に取りつかれているらしい。
嬉しいシルバーウィークが雨ばっかで気分が上がらないけど、そういう時こそ感受性を復活させて、楽しいことを見つけたい。あ、てことは感受性を守るためには体力も必要だったのか。
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