
「大晦日の夜、6人の高校生が寂れた無人駅に降り立った。」を読んで。
おさつさんの書かれた、「大晦日の夜、6人の高校生が寂れた無人駅に降り立った。」を読み、問寒別で過ごした冬の思い出が溢れ出たので、書き残しておこうと思う。
当時僕らは、低温科学研究所と北海道工業大学の共同研究の手伝いをしていた。
「マイクロ波を使った、積雪情報のリモートセンシングに関する研究」のような名前の研究だったと思う。
積雪の上から、マイクロ波を照射し跳ね返ってくる電波の減衰量から雪の中の状態を探る研究だった。
教授が5人、学生が4人のグループで私以外はコンピュータが決められた時間間隔で取得するデーターの解析を行なっていた。
私の仕事は、積雪の中の状態を観測することであった。
積雪の内部は、降り積もってからの気象状況で密度の違った層になっている。
途中で気温が上がり表面が溶けた場合などは、氷の板の状態の部分もある。
また、地面に接している部分は外気温は氷点下が続いていても、0℃に近い温度であり水分を含む状態であることが多い。
それぞれの積雪の特徴を調べ、そこの状態の変化を1時間ごとに観測するのが仕事だった。
私が観測していたデーターは、温度・硬度・密度・含水率を手作業で測定していた。
1箇所のデータを計測するのに5分程度かかり計測ポイントは5箇所から8箇所くらいあった。
つまり、1回のデータを撮るのに、40分~50分程かかっていた。
問寒別の冬に、9時間ずっと外での作業を毎日行っていた。
楽しみは、飲むことしかなかった。
ホクレンの売店が4時半頃には閉まっていた。
店が閉まる前に、4人の学生の誰かがその夜必要な焼酎を買い出しに行くのが日課だった。
ただし、私は売店まで行くだけの時間に余裕がないので、私が買い出しに行ったのは二、三回しかなかったと思う。
問寒別には、北海道大学の演習林がありそこの宿舎に泊まり込んでいた。
そこでの食事は、我々学生には大変豪華なものだった。
5人の教授の中に、低温科学研究所元所長と現教授がいた事もあり多くの配慮をして頂き住環境は素晴らしものだった。
問寒別に入る前年には、北母子里駅の近くにある演習林で観測を行ったことがある。
この時は、名寄駅から深名線で北母子里駅に向かった。
名寄駅に着くと、雪が降り出していた。
それほど多く降っていたわけではないが、一両編成の列車は途中で前進を諦め、名寄駅に戻ってしまった。
すでに日は暮れ暗闇の中で途方に暮れていると、一人の教授が自衛隊に電話をかけてくると言って、駅長室に入って行った。
その教授は、自衛隊で使うスキーの性能試験を行ったことがあり知り合いの幹部に相談してくれた。
名寄駐屯地の雪上車で、演習林の宿舎まで送ってもらえることになり生まれて初めて、自衛隊の雪上車に乗ることができた。
因みに自衛隊で使用するスキーの性能試験とは、雪上を走行するときに発生する摩擦音が小さいスキーが優秀なスキーということだった。
国内外の凡ゆるスキーをテストした結果、当時小樽市にあった伊村スキーが最も優れたスキーだとその教授が話してくれた。
残念ながら、伊村スキーは今は無いらしい。
北母子里の宿舎は、丸太小屋だった。
小屋というには規模の大きいログハウスで、丸太の壁には至るところ隙間だらけだった。
2段ベットの間に石炭ストーブがあり、一晩中炎が消えることは無かったが、壁の隙間からは氷点下30℃近い外気が容赦無く入ってきた。
宿舎のトイレは汲み取り式で、排泄物は下に落ちた途端凍って1本の柱になっていた。
柱の先は、便器に向かって毎日成長していた。
大きな穴の上に床を広げ、等間隔に便器を置いただけの規模の大きなトイレだった。
幸いに、そこのトイレを使ったのは冬だけだったので、臭いは全く無かった。
成長した柱は、衝撃を与えれば崩れてしまい、安心して用を足せた。
ただし、のんびりとズボンを下ろしているにはあまりに寒いので、我慢の限界までトイレには行けなかった。
風呂もここでしか経験できない風呂だった。
10人くらいが、同時に入れるような風呂だったが、風呂の引き戸の横に、大きなマサカリが置いてあった。
蒸気で引き戸が凍り付いてしまうのだ。
風呂から出るときに、マサカリの頭で引き戸に衝撃を与え凍り付いた引き戸を開くのだった。
夜中になると、森の中から何かが破裂する音が聞こえてきた。
氷点下25℃以下になると、樹木の中の水分が凍って破裂する音だった。
凍烈という現象だそうだ。
北海道の森林に入ると、縦にひび割れた樹木を見つけることがある。
このひび割れが凍烈の後である。
問寒別の演習林にあった、乗用車のシフトノブの近くにそれまで見た事のない蓋がついている車があた。
バッテリーのスパークではエンジンが始動しないので、エーテルを噴霧しエンジンを点火するのだと聞いた。
ディーゼルエンジンの重機などで、エーテルを噴霧することは本州でもあるが、ガソリンエンジンの乗用車にそれ用の蓋が付いていることなど、あの時以来見ていない。
今回、おさつさんの記事を読み6人の高校生の輝いている姿に触れ、自分と彼らの大切な場所が重なったことがとても嬉しく思えました。
おさつさんと、6人の彼らに心から感謝いたします。
40数年経って、鮮やかに記憶が蘇ったように、君達にもそんな日がくると思います。
おめでとう、そしてありがとう。