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風のはなびら(5月16日日曜日)

廊下を走る靴音と、看護師の声で目が覚めた。
昨夜も、同じ音で目覚めた。
ぼんやりと天井を眺めていただけで、眠っていたわけではない。
看護師が廊下を走る時はそれなりの時で、いつ自分の番になるかと思うと、寝られるものでは無かった。
看護師の声に片山まりの声も混じっていた。
「マリア、今晩夜勤なんだ。」
靴音は、二部屋奥の病室の様だった。
この時間に、テレビをつけるわけにもいかなかった。
恵理子は、ラジオを持っていなかった。
「ラジオ欲しいな。」
この音を、朝まで聴いているしか無かった。
残酷な時間だ。
おそらく、自分もこの騒ぎの当事者になる時が来るのだ。
そう思うと、涙があふれてきた。
朝になったら、誰かからラジオを借りようと思った。

知事校舎前でバスを降りた。
並木の緑も深い緑になっている。
日差しは強く、荷物は重かった。

木村恵理子から電話があった。
ラジオを貸してくれという電話だった。
自分のを貸すわけにはいかないので、友人に聞いてみると告げた。

同じアパートに住む、電気屋の市川さんに相談した。
「これでよければあげるよ。」と言って以前自分が使っていた大型のラジカセを持ってきてくれた。
Sony製のスピーカーが4個もついた、高級ラジカセで相当高価な物だった。
そして、とても重かった。
大通公園を横切る頃にはフラフラになっていた。
並木の影に「楽譜」という名の喫茶店が見えた。
僕は、そのドアを開けた。

グランドピアノが中央にあり丸テーブルがピアノを囲む様に置かれた喫茶店だった。
BGMにはチェンバロの曲が流れていた。
「いらっしゃいませ。」と言って若い女性が席に案内してくれた。
「何にしますか。」
「アイスコーヒーお願いします。」
「すごい汗ね。」
「これが重くて。」
そう言って、トートバックの中のラジカセを見せた。
「高そうなラジカセね、買ってきたの。」
「入院している友人に、貸してあげるんです。」
「病室に、こんな大きなもの置けるの。」
「これしかなくて。」
笑顔を僕に向けてカウンターに入っていた。
カウンターの中にはもう一人の女性と店主らしい男性がいて、軽く頭を下げてくれた。

笑いながら、もう一人の女性がアイスコーヒーを持ってきてくれた。
「砂糖とミルク使います。」
「使いません。」
「うち初めてでしょう。」
「この辺りは、来る機会がなくて、ススキノではアルバイトしてるんですけれど。
 通り過ぎるだけです。
 お店の名前、ガクフて言うんですか。」
「楽譜って書いてスコアっていうのよ。」
「おしゃれですね。」
「ありがとう。」

木村恵理子は、附属病院の脳神経外科にいた。
「やあ、持ってきたよ。
 こんなに大きいけれど、大丈夫かな。」
「すごいね、テレビの下どうかな。」
「それとこれ、イヤホン。」
「イヤホンはテレビのがあるから大丈夫だったけど、ありがとう。」
「前の部屋の人から借りてきたから、そのつもりでつかってね。」
「迷惑かけるね。」
「びっくりしたよ。まさか君から電話があるなんて想像もしていなかった。
 ナオちゃんどうした。九州に転勤したんだろう。」
「知らない。連絡もこない。」
「入院してるの、知っているんだろう。」
「知らない。
 連絡してないし。
 ミヤちゃんにしか話してない。」
冗談だろう、そもそも僕と彼女はなにも関係ないのに、なんで僕のところに電話してくるのか理解できなかった。
「なんで、俺って思っているでしょう。」
「あっ、うん、そう思っている。
 何で俺なの。」
「マリアに相談した。」
「片山まり。」
「そう、彼女この病院で看護師しているの。
 相談に乗ってもらったら、ミヤちゃんが琴似に住んでいるから、電話したらって言われたの。」
「何で、僕のアパートの電話番号を知ってたの。」
「店の住所録から調べてきてくれた。」
「そういうことか。
 それでどうなの。」
「何が。」
「君のことさ、病気のこと。」
「悪い。
 最悪。
 長くないらしい。」
「えっ。」
「手術できないって。」
「何で。」
「脳の真ん中に、ゼリーのような腫瘍ができているらしい。」
「どうするの。」
「薬だけ。
 待つだけ。
 結構同じ病気の人っているみたいなの。
 この階には手術のできない人が何人かいるみたい。
 昨夜も、夜中に発作が起きて、朝まで大変だった。
 ダメだったみたい。
 いつか私もそうなると思う。」
「夜中に看護師さんが走るの。
 ナースシューズがセンターと病室の間を何度も走るの。
 夜だし、テレビつけるわけいかないでしょ。
 みんな起きているんだけれど、テレビはつけられ無いでしょう。
 みんな、イヤホンしてラジオ聴いている。
 音が漏れないように、じっと聴いている。
 涙が出てくるの。
 きっと次は自分の番だって。」
「大丈夫。」
「大丈夫じゃない。
 おかしくなりそう。
 マリアが夜勤の時は、見に来てくれるの。
 エレベータの前の待合室で話すの。
 ここでは悪いから。」

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