
【AI文芸】悪魔はいつだって君の隣にいる ~ もう好い加減解禁ですよね ver.
――夜のバー。
カウンターに座り、グラスの中の氷がゆっくりと溶けるのを眺めていた。
店内には静かにジャズが流れ、カウンターの奥ではバーテンダーが無言でグラスを磨いている。
「ワクチン、打ったかい?」
低く、滑らかな声が聞こえた。
僕はふと隣を見た。
黒いスーツ、端整すぎる顔立ち、そして妙に落ち着き払った仕草。
どこか浮世離れした存在感を持つ男が、グラスを軽く傾けながらこちらを見ていた。
「……なんだって?」
男は微笑む。
「ワクチンの話さ。君はもう打ったのか、それとも……まだ迷っているのか?」
僕は静かにグラスを回した。「まあ……考え中ってところだ」
男は頷く。「なるほどね。君は慎重派だ。だが、それも悪くない……人間は本来、疑う生き物だからね」
僕は視線を逸らし、グラスを口元に運んだ。「だったら、放っておいてくれよ」
男は笑う。その笑みには、冷たさと温かさが奇妙に混じり合っていた。
「もちろん、強制はしないさ。選択はいつでも、君自身のものだよ」
そう言いながら、男はジャケットの内ポケットから何かを取り出し、カウンターにそっと置いた。
それは、一本の注射器だった。
僕の指が、無意識にグラスを強く握る。
「……何のつもりだ?」
「安心を提供するだけさ」男は穏やかに言う。「これは君のためのものだ。打てば、もう何も考えなくて済む。誰にも責められず、誰にも疑われず、ただ安心の中にいられる」
「……そんなもの、俺は必要ない」
男は軽く首を振る。「そうかい?でも、君のまわりはどうだ?」
彼の指が、カウンターをトン、と軽く叩く。その音が、脳に直接響いたような気がした。
「君の友人、家族、職場の人間……彼らはどう思っているかな?『まだ打ってないの?』『何をそんなに迷ってるの?』そんな視線を感じることはないか?」
僕は黙ったまま、グラスを回し続ける。
「もちろん、君がどう選ぶかは自由さ。でも……社会はそうじゃない」
男は再び微笑んだ。
「君は、彼らの疑念に耐えられるのか?『何か隠してるんじゃないか』という視線、『何を恐れてるんだ?』という言葉。彼らの目が、君を少しずつ遠ざけていく。君はその孤独に耐えられるか?」
僕の指が、グラスの縁を無意識に押し込む。
「……そんなことはない」
「そう思いたいだけじゃないか?」男は軽く肩をすくめる。「人間は群れる生き物だ。少数派でいることは、時に死よりも辛い。だからこそ、君は迷っている。打たなくてもいいと言いながら、なぜ決断できない?」
カウンターの奥で、バーテンダーが静かにグラスを磨く音だけが響く。
「……そんなもの、気にする必要はない」
「本当に?」男の声が、ふっと低くなる。「君は今、心のどこかで怯えている。自分の選択が間違いではないかと。もしかすると、自分は愚かな道を選ぼうとしているのではないかと」
僕は唇を引き結ぶ。
「考えてみろ。君が打たなかったせいで、大切な人が病に倒れたとしたら?」
僕の心臓が、一瞬だけ跳ねる。
「君は平気でいられるか?『自分は関係ない』と、心から思えるのか?」
男はゆっくりとグラスを傾けた。
「……それとも、その手が震えるか?」
僕は息を呑んだ。
「……俺は……」
男は笑みを深め、静かに注射器を指で押し出す。
「打てばいいさ。そうすれば、すべて終わる」
彼の声が、まるで甘い夢のように響く。
「何も考えず、何も恐れず、ただ安心に身を任せるんだ。それが、最も楽な選択だよ」
僕は、カウンターに置かれた注射器を見つめる。
手を伸ばすべきか。拒むべきか。
だが――
「……いや」
僕は静かに手を引いた。
「俺は……俺の選択をする」
男は微かに目を細める。
「ほう……?」
「誰かに決められるのは御免だ」僕はグラスを握りしめながら言った。「自分の選択が正しいかどうかなんて、誰にもわからない。でも……俺は、俺自身の意思で決める」
男はゆっくりとグラスを置くと、拍手をした。
「素晴らしい。人間らしい決断だ」
彼は静かに笑う。
「だからこそ、人間は……実に、面白い」
男は注射器を手に取り、スーツの内ポケットへとしまう。
「だが、忘れるな。お前がそう思えるのは、今だけかもしれない」
彼の瞳が、一瞬だけ深紅に光る。
「いずれお前は、選ばされる日が来る。そのとき、自分を貫けるか……楽しみにしているよ」
僕は息を呑んだ。
「……君は、何者なんだ?」
男は微笑んだまま立ち上がる。
「何者でもないさ。ただの親切な案内人だよ」
そう言い残し、彼はバーの扉を押し開け、静かに夜の闇へと溶けていった。
僕はその背中を見送りながら、カウンターに置かれたグラスを見つめる。
手のひらに、じんわりと汗が滲んでいた。
いつから、こんなに緊張していたんだろう。
……妙な夜だった。
僕は深く息をつき、グラスをひと口で飲み干した。
しかし、彼の言葉だけは、酒よりも強く、喉に残っていた。