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母との別れ

昨年、母が2020年の2月と5月、そして9月とコロナ禍の期間中3回入院をした。2月の時は、たまたたま自分が母のところ(群馬県の北部山間部)へ顔を見に行っていた時に、様子が悪かったので一緒に病院へ行き、そのまま入院させた。5月の時は緊急事態宣言下だったので、見舞いどころか東京から群馬へ行くことすらできなかった。9月に入ってすぐ、また入院したと知らせが来たが、まだ県またぎの移動は控えていたし、高齢の母に東京から行った私が会うことはためらいもあった。

結局2月の時から8ヶ月も会うことも群馬へ行くこともできなかった。しかし、今回は1ヶ月以上の入院になり、延命措置はどうするか?ということまで確認された。本来なら手術をした方がいいが、高齢のため、それも控える選択となった。妹からもう長くないと連絡があったものの、病院の規則で面会もできないという。

入院生活が1ヶ月以上となった10月の上旬、残り寿命も僅かだというのに、面会もできないというのは不条理だと思い、出かけてみた。それでも病院の規則で会うことは叶わなかった。

2020年の7月に大学時代の親友を亡くした。その際も見舞いもできず、亡くなった後の別れも叶わず、未だに心の整理ができていない。本当に彼は亡くなってしまったのだろうか。青山にある彼の会社の近くを通る度に、会社に立ち寄ってみようという気持ちになる。生き残った者が納得できない別れほど辛いものはないということが本当によく分かった。

そんな経験があったので、このまま母に会えずに別れることだけはなんとしても避けたかった。そこで婦長さんに直接電話してお願いした。大部屋から個室に移れば、息子さんでしたら10分だけ許可を出しますという返事をいただいた。ありがたかった。病院のみなさん、医療従事者の方も逼迫した状況の中で休みもなく仕事に専念し、私のような家族と常に向き合わなければならないことの大変さも想像以上だと思う。母の入院していた病院は日赤なので地域のコロナ患者を受け入れているので、規則は厳しく遵守されている。

11月4日に母は息を引き取った。その前に4回、週に一度だけの面会を許された。僅かな時間でも母に会えたことはとても嬉しかった。会う度に母の容態は変わり、残された時間が差し迫ってきていることは明らかだった。その時間の経過が私にとっては気持ちを整理するのに必要な時間だったのかもしれない。好きだった母が亡くなった時、不思議にも泣かなかったのも、その時間があったからかもしれない。

年末に50日祭と納骨を終え、母もあの世でようやく兄にも会えたことだと思う。もちろん父にも。3人揃って並んだ骨壷と名前が刻まれた墓碑を見て、気持ちも落ち着いた。少ない親族だけで食事の席を囲み、葬式の時しか会わないねという会話を何度も繰り返していくことで、人は少しづつ死への道を歩んでいくことを実感できるんだろうと思う。両親と兄を看取ることができた私は幸せなのかもしれない。


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