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自由によって淘汰される

ルッキズムのそしりをのがれられないかもしれないが、最近の若い人には美男美女が多いと思う。

僕らの世代は、団塊ジュニアにあたるが、クラスの卒業アルバムなどを見ても、美男美女の発現率は1割にも満たない。

一方、最近、高校の課外授業などで接する高校生を見ると、半数ぐらいはいるように思う。

以下は、この主観のみに基づく、かなり大雑把な推論である。

現状、日本では、容姿が一定以上のレベルに達していないと結婚できず、子孫も残せない社会なのではないか。

子どもの容姿は、当然ながら親からの遺伝によるところが多い。

美男美女が多いのは、そうでない人が淘汰されたからと考えられるということだ。

未婚の増加と少子化は、明確に数字に表れる現象であるが、数値化できない面でそのような傾向が表れているのではないだろうか。

これまでの投稿でも、少子化や未婚率の増加を問題視してきたが、このようなセンシティブな部分には触れないようにしてきた。

なぜ、あえてそこに切り込もうと思ったかというと、NHKの朝の番組で、未成年の美容整形が増えていると知ったからだ。

僕らの年代では、整形をすることは、親からもらった体に傷をつけることであると言われたりして、悪いことのように思われていた。

ところが、最近は比較的カジュアルに、美容整形が行われているという風に感じる。

それどころか、世代が若くなるにしたがって、むしろ整形していないと、周りから取り残されてしまうような意識になっているようなのである。

言い換えるなら、恋愛戦線から脱落するという、強迫観念が生まれつつあるのという感じである。

ルッキズムが表面的に批判されるため、大っぴらに言葉にはしないが、人々の心の中では、どんどん進行しているのであろう。

原因として考えらえるのは、一つはメディアや情報化社会の影響である。

テレビをつけても美男美女が映る。

さらにSNS、特に最近TikTokを起点として、YouTubeなどでも、見たこともないような美しい女性が踊ったり、なんらかのパフォーマンスをする動画が、頼みもしないのに、どんどん出てくる。

それらは、もしかすると、テレビに出てくる芸能人よりも美人なのではないかと思う。

僕は男なので、おそらくアルゴリズムの関係で美人が出てくるが、女性のそれには美少年や美青年が出てくるのではないだろうか。

ちなみに、僕はそういうものは、出来るだけ見ないようにしていることを断っておく。

たまに自動で再生されてしまうだけである(本当である)。

こういうものを見ていれば、自分の周りの異性に対する目も厳しくなるであろう。

もう一つは、自由意思が、最大限に尊重される社会であるためである。

以前、自由がうつ病の原因という投稿をしたが、今回も原因は自由であると考えているのである。

とはいえ、僕は別に自由を目の敵にしているわけではなく、むしろ自由を愛していると言ってもいい。

その一方で、少なくとも中世から近代にかけてはなかった、個人の自由の概念によって、いろいろと以前と違う現象が起こってきているのだ。

これは、当たり前と言えば、当たり前のことである。

今までと違うことをしているのだから、今までと違う結果になる。

そして、それはどこにどういう風にあらわれるのか、予想するのは難しいことなのだ。

近代、あるいは戦後ぐらいまでは、結婚は家を中心に考えられていた。

今放映されているNHK朝ドラ「虎に翼」によれば、戦前までは相続は長男が全て受けることになっていたらしい。

逆にいうと、長男は家を継がなければいけない義務があったともいえる。

必ず一人はその土地に残って、家を継げば空き家は出来ず、住民を減らさずに保つことにもなるし、墓や寺を存続させることにもなる。

そういう観点からは、一定の合理性がある制度であったと言えるだろう。

空き家問題も、過疎問題も、個人の自由を尊重し始めたことが起点になっている。

同様にして、家を継ぐということは、妻を迎え入れ、子どもを作るということでもある。

家によって男がいない場合は、長女が婿を取るというのも、同じ思想によるものだろう。

結婚適齢期になれば、長男か男子のいない家の長女は、親や親戚が結婚を世話して、必ず結婚させようとする。

その結果、家を継がない次男以下の男子と、大半の女子は、どこかの家に婿入り、嫁入りすることとなり、子だくさんの場合は、分家を形成する流れになるだろう。

いずれにしても、結婚適齢期を過ぎても結婚できない人や、一生結婚できない人は、そんなに多くはならないシステムだったのだ。

それが、相続が兄弟姉妹で平等分配になり、個人の自由がもっとも尊重される社会になったことで、家や地域社会の保全システムが崩壊し、空き家が増え、過疎やスポンジ化現象を招いている。

檀家に支えられていた寺も存続が危ぶまれており、先祖代々の墓に入らないという人も増えつつある。

また、よく言われる、東京に人が集中する問題の原因でもある。

そして、自由意思による婚姻の慣習は、結婚できない人を増やす要因ともなっていると考えられる。

出会う人が多ければ多いほど、結婚相手を見つけるのは難しい。

なぜなら、男女双方の選択が一致する可能性が低くなるからだ。

わかりやすい例でいうと、よく言われることだが、無人島に男女が二人しかいなかったら、否応なくその二人は、カップルになるだろう。

しかし、男女がおのおの100人の中から選べるという環境にあって、できるカップルは確率的には1組である。

そして、これを1000人対1000人で考えた場合も、やはり1組なのである。

すなわち出会う人が多ければ多いほど、単純にお互いの好みが一致する可能性が低くなるのだ。

狭いコミュニティに暮らし、自由が制限される昔よりも、自由にたくさんの人と出会うことが出来る現代は、確率から考えても、相手を見つけるのが難しい。

出会う人が多ければ、選択の幅も多いと錯覚し、少しでも気に入らないところがある相手とは、決して結婚しない。

また、相手の性格などがよくわからない段階で判断する場合、容姿によって判断する可能性が高くなる。

前述の100人対100人などの確率は、任意に選んだ場合であるが、実際には容姿のいい男女に、好みが集中する傾向があるだろう。

したがって、容姿がいい男女が周りにいれば、容姿のおとる男女が選ばれる可能性も低くなる。

あるタイミングではチャンスを逃しても(たとえば学生時代とか)、またチャンスがやってくるかもしれないと思って妥協せず、高望みをしていると、婚期が遅れることともなる。

いつか結婚できるだろうと思っているうちに、取り返しのつかない年齢になっているのが、現代の40代、50代の独身者なのではないだろうか。

かくいう僕にしたところで、45才でやっと結婚できたぐらいで、彼らと紙一重なのである。

さらにいうと、子どもはいないので、その点では同じなのである。

一方、昔であれば、相手の容姿があまり気に入らなかったとしても、周りの圧力で結婚せざるを得なかったケースもあったと思われる。

何千年と続いてきたエコシステムには、一定の合理性があるはずで、結婚や子孫繁栄に関していうと、現代の自由(放任)主義は、結果を見る限り、欠陥があると言わざるを得ない。

現代日本の社会制度は、容姿のおとる人間は、子孫を残せず、淘汰される状況であると言えるのではないだろうか。

だとすると、自由は不平等を生み、人権が守られないという、期待されることとは逆の、皮肉な結果を招いたことになってしまう。

また前述したように、口には出せない一方で、無言のルッキズムが支配する世の中になりつつある。

そのようにならないために、社会をどのように修正すればいいのであろうか。

やっぱり、みんなが美容整形するのが正解なのかな?

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