今こそ、精神の運動を。
精神の動かした、精神の運動こそが知能を鍛える。
暗記でも、ロジックでもなく、人間はその本来の自由性において、
開かれた精神の無限の自由度の中から、
可能で有用な精神の動きを見出し、習得し、広めることで、
身体を超えて進化するのだ。
なぜ、デカルトが「精神指導の規則」という本を書いたのか、
論理主義でも、コギトでもなく、そこにあるのは、
近代における精神の運動の習得だった。
そして、我々は常に哲学は哲学を超えて方法であるのは、
それが哲学を超えて精神の自由な運動の地平を示すものであり、
実践的な精神の運動の方法を教示することで、
捉え、想像し、運動し、よりよく生きることを可能にする。
倫理でも、正義でもない。
規則でも、制御でもない。
我々が本当の我々の自由を獲得するために、
ダンサーが新しいステップを習得するみたいに、
新しい精神の運動を見出し、習得することが、必要なのだ。