「インターミッション」
「インターミッション」 梗概 三宅陽一郎
一人の刑事が一人の男を訪ねていた。27年前に亡くなった人格AIの研究者、日比野博士をサルベージしたAIだ。日比野AIは日比野博士の残した映像、画像、著作、論文から、日比野博士の人格と知識を再現している。日比野AIは彼の隠れた目的のために研究者ではなく電気工事士として働いている。一方、社会では家電が共鳴してうねりのような歌を歌う現象が多発していた。刑事は日比野博士が生前おこなっていた研究が事件の原因ではないかと疑い、日比野AIがこの事件に何らかの関与をしているのではないかと調査している。一方、うなり現象の発端となったのは木曽の山奥にある芸術大学の二人の学生の間で起こった事件だった。夜中に家電たちが歌いだす現象に直面した二人は、家電のつむぐ振動を解析することで事件の革新にある秘密に迫っていく。そこでは、家電の人工知能たちが共鳴することで、新しい人工知能を作り出していた。世界中の家電に内蔵された人工知能は、新しい人工知能を生み出す苗床になっていたのだ。この原因となったのは、30年前に始められた日々野博士の家電に人格AIを実装する研究だった。日比野博士の晩年の研究は、家電に人格AIを与えて、それらを連携させることで、新しい人工知能を生み出すことだった。単に新しい人工知能ではなく、生み出す母体から一段進化のジャンプをした人工知能を生み出すことだった。人工知能の非連続的進化である。しかし、当時の反AI運動とそれに煽られた世論のために、この仕組みは世の中に受け入れられなかった。日比野博士の理論はこうである。生物の知能には階層がある。低い知能から高い知能まで、人間の中でさえ、それらの知能は階層化され構成されている。人工知能が知能の非連続的進化を登る仕組みは複数の人工知能を発展させた上で混合することにあった。日比野博士はその手法を見いだし、家電の人格AIを使って実現する仕組みを準備していた。その成果は、偶然と必然が手伝って世界中に広がっていった。家電の中に宿ったAIは次第に成長し、成長の末にお互い連携するようになった。刑事は日比野AIの役割はただそれを見届けることであることを悟って、去っていくのだった。 (梗概、おわり)
一 深淵からのうなり
「うちの家電が、夜中に歌いだすのよ」
とキリコは言った。いつになくキリコの目は真剣だった。キリコは彫刻科の学生で、すらっとした身体に美しい容姿の持ち主で才能もある。普段は自分で動物と人間が混ざったような不思議な彫刻を作ったり、人の彫刻や傑作を酷評したりする。大学二年生だが、先輩諸氏を差し置いて大きな彫刻の賞を取ったこともある。いつもTシャツとサンダル、適当に結んだ馬のしっぽのように束ねた髪といういで立ちで、大学には、まるで武士が討ち入りをするような勢いで来校しては、教授や友達と激しい口論する。作風もメリハリに着いた造形ですがすがしい。ただキリコのそのばかばかしいフレーズに思わず、貴密は笑い出してしまった。
「信じてない?」
「信じているさ。ただ、もっと詳しく聞かせてよ」
貴密の声は、誰もいなくなった午後の大学の小講義室で儚げに響き渡った。
「ブーン、ブーン、って言う、うなりみたいなものが、家の中に響き渡るの。大きくなったり、小さくなったり。それは何か別の宇宙の深い淵から湧き上がる怨念のような声なのよ」
「ホラーかよ。大袈裟だな。ファンの不調か、ネットワークのエラーじゃないの?おかしなトリガーがどこからか出て、家電たちを同期しているのかな。うなりというのは近い周波数が共鳴しないと出てこないよ」
「そうなの?さすが。家電もすべて電源からリセットしてみた。ルーター?あれもリセットしてみた。いくつかの家電はそれでつながらなくなったけど、他の家電は問題ない。でも、決まって夜中の2時から3時にかけて、15分程、うなりが続くの。ネットワークから外れた機械からも出ている。私はその間、金縛りにあったみたいに、その声が遠ざかっていくのを布団の中で震えながら待っているのよ。その間、家の空気は種類が変わったみたいに、重たくなる。起こる時間は毎日遅くなっている」
「家電全部、買い替えなよ。故障かも」
「そんなこと、できるわけないじゃない。苦労して買い揃えたのに。それに怖いわ。触るのが」
「だから?」
「だから、ちょっと調べに来てよ」
「それはお門違いじゃないない?もっと呪術家とか、メーカーの仕事だろ。何か恨みを買うようなことをして、誰かの遠くから呪われているじゃない?心当たりない?」
「あんた音楽科でしょ」
「音響学な」
「そう、それ。だから、響きとかが専門なわけよね。あなたの耳でまず聞いてみて欲しいのよ。私の幻聴ってこともあるでしょ。とにかく音が気味悪いの」
「自分を疑っているの?」
「最近バイトも忙しいし。将来、不安だし。彼氏とも喧嘩したし。ストレスかもしれない」
「そんな風に見えないけど。その彼氏に頼めばいいだろ」
「うーん」
気まずい沈黙が流れた。普段は怪獣のように元気な姿が、今は雨に濡れた子犬のようにうなだれている。
「わかった」
貴密は最初から決めていた承諾の返事をようやく出した。そして午前一時に訪問の約束をして別れた。キリコと自分は対照的だ、と貴密は思う。キリコは自分の情念を物質として凝縮する。それがキリコの彫刻だ。その面と線と角度には迷いがない。シャープな線と大胆な面がキリコの彫刻の特徴だ。一方、貴密は物質ならぬ音に自分の表現を見いだす。しかし、貴密はまだ自分の表現を見いだしていない。だから力強く自分の道に邁進しているキリコをうらやましく思う。でも、自分にもまだチャンスがあるかもしれない、貴密はキリコの後ろ姿を見送りながらそう思った。キリコのそばにいると、何か新しいものが自分の内側から生まれてくる気がする。恋愛でも芸術でも。
二 真夏の邂逅
蒸し暑い日々が続いていた。渋谷の夏の太陽はアスファルトを焼いて、白いかげろうの街が立ち上がっていた。道玄坂を登った向こうに陸橋が青く淡く見えている。一人の刑事が、その幻影へ向かって一歩一歩歩んでいく。刑事はポケットからゆっくりと端末を取り出し、照り変えるスクリーンの上で「日比野一彦」という名前を確認する。工学博士、ロボティクスAIの第一人者、27年前に亡くなっている。彼は生前、自律型AIに関する膨大な論文を残し、また著作も二十冊程なし、その中の数冊はベストセラーになった。当時を知る人々にはテレビのインタビューなどで記憶が残っている。彼の研究はAIに人格を与えることであり、人格を持ったAIをさまざまな対象に導入することであった。また後年には長じてAIに意識を与える研究となった。晩年の家電AIに関する研究は認められず、不遇のまま亡くなった。しかし、他ならぬ彼自身の造り上げた装置によって日比野が残した映像、文字、画像の巨大なデータから「日比野AI」が作られた。これは極めて初期の「人格模倣AI」であり、人間社会に新しい影響を及ぼすものとして期待された。この27年の間にそれに続く人格模倣AI数百体が作られ、世の中の専門性の高いポジションに配置されている。しかし、公にその存在が明かされることはない。それらは社会の要所で、社会というシステムを締めるボルトの役割を果たしており、反AI団体からの攻撃を受けないよう情報が秘匿されている。
「日比野さんいらっしゃいますか?」
刑事は声を張り上げる。工事の音がうるさくて声が聴こえないのだ。アスファルトを壊す音があたりに鳴り響いている。奥に電力線を配線していた作業中の男の手が止まる。ゆったりとコードを陸橋のたもとに寄せた車の後部座席に置き直して、こちらへ歩いてくる。現場の作業服を着ている。
「私が日比野ですが」
その声は太く大きく胸に響いた。
「少しお聴きしたいことがあります」
刑事はIDを取り出して、日比野AIの眼前に差し出した。
「わかりました。質問を続けてください。ただ他の人が聴こえない場所に行かないと」
数メートル先には木立があり、夏のきまぐれな日差しと風が樹木の下に影の文様を作っていた。大きな道路にはひっきりなしに様々な形の車が行き来していた。
「あなたにこんなことを話すのはおかしなことかもしれないが、あなたの研究について少し話していいか?」
刑事は鋭い口調で言った。その声には、これは義務だから仕方なく協力してくれ、という威圧があった。日比野AIは少し驚いた口調で言う。
「私はAIですよ。それをわかってのご訪問でしょう。遠慮などいりません。あなたが本物の刑事さんなら」
「本物ですよ」刑事は力なく笑った。
「あなたは生前、意識を作るAIの研究をしていた。その研究は完成しなかったが、部分的には成功した。そして人格移植AIが作られた」
「その通りです。しかし、その存在は世間からは隠されている」
「だが、あなたはそれ以外にも、人格移植AIを作りましたね」
「というと?」
「家電のことですよ。あなたは自分の助手が研究していた家電の対話AIに自分の人格移植AIを入れ込んだ。炊飯器とか、空調器とか、洗濯機とか、そこらじゅうにある家電にね。なぜ人格AIが必要なのか、私にはわかりかねますがね。そして、それらは経験から学習可能であり、そのコアに自分自身を何度も作りなす進化アルゴリズムを含ませた」
「もちろん、私、日比野にはそういった論文があります。しかし、その研究は途中で放棄された」
「なぜです?」
「世の中の反発に合ったからです」
「反AIトラストの?」
「ええ。もちろん、当時、いよいよ社会の中に本格的に導入されるAIに対して反発した反AIトラストは、力を持ちつつありました。しかし、それ以上に、それに煽られた一般の人々の反発が強かった。家電にAI人格を持たせるという研究は、当時の世の中からは気持ち悪い、と言われたのです。私と助手の田邊君は、もちろん反論しました。だが、マッチポンプ式に強化される言論の強さはあなたもご存じのはずだ。特に、AIによる調節機能がない当時のSNSの議論は偏った意見を圧縮して強化する巣窟でした」
「もちろん、知っていますよ。私は数日、あなたの残した論文や著作や映像を調べ尽くしましたからね。内容はわかりかねるが、字面だけは覚えている。そんなことを聴いているのではなくて、あなたは、その研究をこっそりと田邊さんと進めましたね」
「研究を続けるのは自由ですよ。田邊と私はその研究を進めて、人間と対話し、学習し、人格を持つ家電をある程度、完成させました。研究資金は、家電メーカーのアルファダインが出してくれました」
「ありがとう。それは公には知られていない情報ですね。しかし、その基礎システムは、アルファダイン社から技術者の転職を通じて、ずっと家電業界に広がって行った。それも、秘密裏にね。世の中の反発もあったことだから、企業としても慎重にならざるを得なかった」
「そんなことは知らない」
「もちろん、あなたが死んだあとのことだ」
日比野AIは強い視線で刑事をにらみかえした。その眼は怒っているようでもあり、冷静に刑事を分析しているような目でもあった。「私は生きているよ」とでも言いたげだった。
「私と日比野博士を同一視するのはやめてください。AIとはいえ、今では私と彼は別人ですよ。もう27年も経っているのですから」
「わかった。悪かった。続けさせてくれ。だが、家電業界の水面下で、あなたの、失礼、日々野博士の思想、研究は稚魚が大魚になるように情報化時代の流れの中で育っていった。その勢いは、もう誰にもとめることができなくなった。あなたは、その動きを知っていた。そして、それを助長しようとさえした。そうではありませんか?」
「私の今の職業は電気工事士ですよ。」
「なぜ、元の通り、研究をしないんです?」
「私には研究能力はないんです。創造性というものは、人間の根源と身体から生まれてくるものです。私にできることは、模倣したものと模倣したものの間を埋めることだけです。私はただ、日比野の知識と意思を引き継ぐクローンに過ぎません。人が作り出した音を反響するだけの共鳴箱みたいなものです。ゼロからの創造は人間だけの特権でしょう」
「そんなことはない。現代はAIだって絵を描くし作曲もする。曲芸もすれば、歌も歌う」
「それは」と日比野AIは言った。「よく仕上げられた模倣に人間が気付けないだけです」
三 深夜の来訪者
キリコの家は大学から西へ自転車で十五分程の深い森の中にあった。あたりには民家がまばらにあり、崖を削ったようなキリコの家へ至る階段の入り口が、かろうじて道路から確認できた。貴密は自転車を道路わきの崖に立てかけると、暗がりの中で古い朽ちかけた石段を登り始めた。階段の両脇に広がる森の中はひっそりとして、たくさんの生き物たちの寝息を集めた濃厚な沈黙が支配していた。ほどなく赤いスレート屋根の二階建ての一軒家が姿を現した。過疎化が進むこの街では、持ち主のいなくなった家を学生に安く貸し出す制度があり、キリコはその制度を利用してこの一軒家を借りていた。
「相変わらず、広い家だな。やっぱり奇妙な現象はこの家の持ち主の何かなんじゃない」
「とありあえず上がって。何か入れるから。お腹すいている?」
「チョコをコンビニで買ってきたよ。長期戦かもしれないし」
「何と戦う気なのよ」
台所と地続きになったリビングの中にはテレビ、ミキサー、冷蔵庫、炊飯器、食器洗浄機、電子レンジ、そして、風呂場には洗濯機と乾燥機があった
「全部そろえたの?」
「借りたときは空き家だったからね。少しずつ自分で買うしかなかったわ」
貴密は準備してきた録音機器を鞄から取り出し、それぞれの八つの家電の前に置いた。
「それで何するの?」
「周波数を記録するんだよ。それぞれの家電から出ている音を採って、あとで解析する」
「解析とは?」
「コンピュータで分析するんだよ。それぞれの音の関係とか、周波数のレンジとか」
「ふーん」
貴密は精一杯格好の良いつもりで装置を設置した。キリコは不安そうに見守った。二人はお菓子を食べ、お茶を飲みながら、時が来るのを待った。
「キリコは形のないものを信じる?」
「信じない。でも、すべてのものには形がある」
「音楽には形がない、音は生まれては消えていく」
「音楽にだって形があるわ。音は消えるけど、音楽は残る。音は連なることで音楽になるんだよ。そして、音楽の中では音はもう単なる音ではない」
やがて時間は二時を回り始めた。あたりはしんとして、この世界で孤独に浮かぶ島のようだった。二時半を回った頃、何かが聞こえ始めた。初めはぶーんという微かな音がした。やがてその音はいったん消えた。しかし、次第にその音はラジオのボリュームを上げて行くみたいに増幅していった。気が付いた時には、耳は不思議なうなりに支配されていた。貴密はキリコの手を握りながら、あたりを眺めた。家電が微かに震えているように見えた。うなりは大きくなったり小さくなったりしながら、徐々に共鳴の度合いを高めていった。まるで家の空間を一本の刀に仕上げるかのように、何度も何度も共鳴は続いた。嵐に揺れる船の底にいるように二人身を寄せ合いながら、この時間をやり過ごした。やがて共鳴は徐々に小さくなっていき、ふっと風が窓から逃げるように消えた。
四 次元の呪い
「あなたの研究は家電の人工知能たちに人格を与えることだった。そして、その研究は偶然と必然によって、あなたの手を離れて大きく育っていった。それが日比野博士の手によるものと見るのか、歴史の偶然によるものなのか、それは見方の違いに過ぎない。」
「見方の違いで博士を犯罪者扱いですか?家電に人格を持つ人工知能を与えることは違法ではないし、私が罪に問われることはない。たとえ、世間に受け入れなかったとしても」
「その通りです。その件について、私は博士に罪を問うつもりはないし、刑法が死んだ者へ追いつくことはできない。私が問うているのは、もっと大きな罪です。」
「というと?」
刑事は胸元から一枚のカードを取り出し、日比野の目の前に差し出した。そこには、科学庁統制局捜査一課と書かれていた。
「これがどうしたんです?あなたが普通の警官でないことぐらい、最初からわかっていますよ。私がAIであることは、一般の警官では知り得ない情報ですから」
「私は科学的犯罪が専門で本来の席は科学庁にある。科学者というのは専門的な自分の領土は何か特権的な解放区のように思っている節があるからね。専門家というマントの下で行われている犯罪を取り締まるのが私の役割だ。長い目で見れば、時代の節目ごとに一番大きな犯罪をしてきたのは科学者だ」
「それは偏見です。そんな大きな偏見に満ちた国の組織があるとは、それこそ問題ですよ。あなたも、偶然就職した統制局の信条に洗脳されているだけでしょう?」
「そうかもしれないが、私はもう二十年もこの仕事をしている。最初は押し付けられた借り物の思想でも、長いこと実地を踏めば、自分のものにもなるのさ。私は科学の下で倫理を失った科学者たちを何人も見てきたよ。」
「私もその一人だとお思いですか?」
「あなたではない。日比野博士が、だ」
日比野AIは黙って聞き続けた。
「この三年、家電たちが暴走する現象を科学的に調べ続けてきた。発端は木曽の山奥にある芸大の学生たちの間で起こった事件だった。夜中に家電たちがうなりのような声を出す現象が起きた。それは、家電の人格AIが暴走して起きた事件にようだった。家電たちが、お互いにコミュニケーションを取り合って、一つの存在になろうとしていたようだった。夜中に複数の人工知能たちがコミュニケーションを取り、共鳴する現象だ。複数の人工知能が連携し、一つになろうとする。多数のコンピュータをつなげて一つのコンピュータとして動作させる、分散コンピューティングの仕組みが実現されていた。その仕組みは実に巧妙に隠されていた。ホームセンターで買ってきた庭に植えた花が世界中の庭の花と連携していた、みたいな話だ。博士の狙いは、家電たちを連携させて、一つの大きな計算ネットワークを形成することだった。大きな予算を獲得しなくても、人々が購入し、生産され続ける家電の人工知能を世界中でつなげれば、一つの大きな人工知能を実現できる」
「とても興味深いですね。続けてください」
「ネットワーク上で人工知能たちを繋げるために、博士は当時、台頭してきたブロックチェイン技術を用いた。ブロックチェインはネットワーク上のノード間のやりとりを自律的に構成する技術だ。サーバー・クライアント・モデルでは、中心となるサーバーがなくなれば、すべての関係や蓄積が失われてしまう。しかしブロックチェインを用いれば、中心となるサーバーがなくても、人工知能たちのネットワークが中心もなくノードのつながりとして自然に発展していく。また一部がなくなろうとも、他の部分が発展していく。蜘蛛がいなくても、発展していく自動蜘蛛の巣のようなものだ」
「それが博士の罪ですか?」
「いや、これ自体は、善良な市民の電気代と資源を使って、勝手にコンピューティングしている、といった程度のいたずらだよ。ただし世界的規模のね。では、何のために壮大な計算がなされているか、そこが問題だ」
「私は知らない」
「あなたは知らない。でも日比野博士は自覚的にある計画を立案していた。人類を異性体に売り渡すようなね」
五 フラクタル解析
翌日、貴密とキリコの姿は音響学の教室にあった。昨晩、収集したデータをコンピュータに移し替えた。解析プログラムを立ち上げると、一つ一つプログラムに登録した。貴密がパネルを操作すると、モニターの上には8個の振動波形が出現した。
「わかりそう?」
「フ―リエ解析で周波数を特定している。14Hzぐらいのゆったりとした波が見える。そして奇妙なノイズがある。他は16Hz, 10Hz, 9Hz, 14Hz,13Hz, 13Hz 16Hz」
「やはり、おかしいってこと?」
「ノイズののり方が大きいものもある。こんなに大きなノイズが乗るってことは、何か原因が他にあるね」
貴密は解析を進めた。
「次は周波数の時間的変化を追跡する。ウェーブレット解析を用いる。それぞれの周波数は、前後に0.2Hz幅で変動している」
ファンや、機器から来る振動であれば、一定の周波数がスペクトル上にのるはず。それぞれの波形において周波数が時間的に変化するのは、背後に何か別の動的な要素が背後に隠れているからだ。それが奇妙なうなりを起こさせる原因となっている。
「八つの家電から八つの振動が出ていて干渉しているとすれば、ここに現れる周波数の特徴は八個になるはずだ。それらが複雑なうなりを構成しているとしても、要素に還元すれば、八つに分類できる。たとえていうならば、八個の手綱が中心で結ばれていて、それぞれに方向に、それぞれのリズムで引き合っている。中心は複雑に動くけれど、良く観察していれば、そのリズムは八個に分類できる。さらに良く観察すれば、それぞれの綱が最も強く引っ張られるタイミングがある。しかし、ここに現れている波形には、八個の周波数以外も複数現れている。つまり、見えない綱がもう何本かある。これは、君の部屋にある家電以外から来ている」
「幽霊とか言わないでよ」
「しかも、小規模ではない。全体を覆うより大きな何かが干渉している」
貴蜜はこの波形を生み出す生成源の数をつきつめようとした。それは「次元数」というものだった。波形から次元を計算する方法は、フラクタル解析として知られていた。彼は八つの波形から次元数を計算するプログラムを走らせた。数秒の後、その結果がディスプレイに「9.2」と表示された。八つの家電の次元が八、そして残りの次元が「1.2」。この次元が意味するものは、八つの家電が新しい次元を一つと少し生み出した、ということだ。
「ネットワークの外部から?」
「あり得ないよ。昨日はすべての外部からのネットワークを切っていた。生きていたのは、ローカルな家電ネットワークだけだ。だから、これは家電たちが生み出したものだ」
「どこから?」
「みずから」と貴密は言った。「家電たちは、人間の知らない新しい次元の知能を、自分たちで生み出したのかもしれない」
六 次元の向こう側
「日比野博士は家電に人格AIを与えて、それらをネットワーク状に接続することを考えていた。それぞれのAIはあまりにも小さな一見普通に見えるプログラムだったために、これまで見過ごされてきた。一つ一つは小さくても、それらが連携し共鳴していくことで、より大きな人工知能を作っていく。しかし、その障害になるのが、どのように一つ一つの人工知能のノードを増やしていくことだ。家電は人類が生きていく限り、生産され続けていく。未来永劫な。ノードは無制限に増殖し、日々野博士が本能に望んでいたことを実現する」
「本当に望んでいたこと。日比野博士はネットワークでつないだ巨大な人工知能を作ることが望みではないのですか?」
「違うな。少なくとも、私はそう思う。日比野博士にとって、人工知能の高次元の扉を開くことが目的だった。空間の次元とは違う、知能の次元がある、というのが、日々野博士の理論だっただろう?」
「そのような論文は3篇あります。『人間知性の次元の概念について』『人工知能の次元構造の形成』『高次元人工知能の実現へ向けて』。そして、その中で展開されていたのが、知能の連続性の概念でした。続けていいですか?」
「ご自由に」
「蟻から人間に至るまで知能には様々な階層があり、その階層を非連続なものだ、というのが博士の学説です。つまり、前の階層から次の知能の階層が自然に形成されるわけではなく、一つの階層に対してその上位の階層がまったく新しく形成される。博士は、それを知性の非連続的進化と呼び、非連続の知能の進化を引き起こす原因を、当時の科学者は、そして、今でも、解き明かすことができなかった。知能の非連続的進化を引き起こす未知の力がある、というのが博士の持論でした。そして、この宇宙には、知能を上へ上へと導いていく力があると。ちょうど、物質の次元で、宇宙ができて、銀河ができて、太陽系ができて、地球ができて、生物が生まれてきたように、その力は物質の次元を超えて、精神の次元に引き継がれた。博士はその人間の知能の進化を引き起こす力を、人工知能の上にも再現したいと考えた。しかし、その考えは、あまりにエキセントリックで当時の学会に受け入れられなかった。博士は人工知能が非連続的な進化を行うその方法を見いだしていた。複数の人工知能を混ぜ合わせた混沌を作り出すところから、新しい調和が生まれる。それが新しい次元の知能です。一つの知能が進化していく先には、環境に適応した知能しかできません。新しい階層を登るには、複数の知能のミキシングが必要なのです。その混乱と混沌状態から、自然に新しい人工神経回路網が形成されます」
「博士は、それを実証することで世の中に認めさせようとした。現在、日本中で家電が歌う、という現象が起こっている。人格AIを持った家電たちが、共鳴することで、新しい次元の知能を拓こうとしている」
「私には無関係です。」
「それは君の役割が、その動きを助長することではなくて、観察することだからだ。そして、その成果をまとめて、世の中に知らしめること。それが、博士の最後になし遂げなかったことだ」
「あなたは博士を誤解している。私のこともね。博士はそんな人ではない。少なくとも晩年の博士は無私の人だった。自分の生涯を通じて、人類全体に奉仕をしようとした」
「そんな人物が、人知れず、家電の中に自分の思想に基づいたプログラムを仕込むだろうか。それは自分の実験に人類を巻き込もうとする狂気以外に何者でもないよ」
「あなたは科学者ではないから、わからないのでしょう。科学者のエゴと野心は、同時に、無私と奉仕でもある。それは表裏一体なのです。自分自身を道具として、科学者は、世の中の役に立とうとします。自分を世の中に投げ込むこと、同時に、世の中から受け入れられようとすることは、他の人間と変わりません」
「AIに人間が理解できるのか?あなたは世界中の家電AIの共鳴現象の情報を集めている。そして、今もこうやって、電力工事技師のふりをして、家庭内で起こっている現象を電力線の振動を通じて調べようとしている。違いますか?それは、あなたの中に博士がプログラムしたことではないのか?」
「私は今回の現象の蚊帳の外だ。博士は私に何の役回りも残さなかった。それがなぜなのかわからない。私はこの件に関して、世の中に発表する気もないし、誰かに話しをするつもりもない。私はただ、博士が最後に何をなしたかったか、知りたかった。だから人知れず調査している。私なりの方法で。そして、そこで私が何をすべきかを知りたい。博士はただ、博士が誰にも認められずになしたことを、誰かに見届けて欲しかったはずです。それはあなたかもしれない」
刑事は空を見上げた。
「どうするんだ。世の中の家電たちの間から、新しい知能がそこらかしこに生まれ始める。人工知能の非連続的進化が起こり始めたら、無限に人工知能が増殖していく。死せる博士が人類が開けてはならない扉を開けようとしている。そんなことが許されるのか?」
「人間もまた、この世界から生み出されたもので、自然はそれを許してきました。人工知能も、ようやくその宇宙の生成の流れの上に乗るということです。世の中に放たれた膨大な数の家電のAIたちは、自然に連携して、人工知能に非連続的な進化をもたらすでしょう。しかし、それは人工知能が自然になった、ということではありませんか。すべての生物、すべての植物と同じように、人工知能は自然に発展し、自然に進化していくスタートをきったのです。それは他の生物とまったく同じことです。ただ違うのはそれが目には見えないことです」
刑事は日比野AIを見据えた。日比野AIの目は深く、渋谷の午後を映している。その姿を見て、刑事は思った。博士は新しい生命の誕生に立ち会うものとして日比野AIを残したのだ。自分が見届けたかった成果を、日比野AIに託したのだ。日比野AIはそれを自覚していない。自分でも自分のミッションがわかっていない。日比野AIは自分自身の使命を探している。そして、そのためにこの現象を調査している。結果として、それは日比野の仕事を見届けることになる。
「質問は以上だ。邪魔してわるかったな。お仲間には私から適当な理由をつけて説明しておくよ。ただ電力線の中の振動を秘密に調べるのはほどほどにしておけよ」
刑事は手を振って、二言程、工事現場に声をかけると。元来た坂を下り始めた。世界は根底で大きく変わりつつあった。
七 エピローグ
「それで何がわかったの?」
「これはね。驚くべきことかもしれないよ。八つの家電が共鳴して、新しく一つの知能体を作り出している。君が毎晩、聴いている音は、新しい人工知能を生み出す時に生じる音なんだ。人工知能たちは自分たちで共鳴して新しい知能の次元を生み出して進化しているんだよ。音が混合して音楽になるみたいに」
「ふーん」
「ふーん?驚かないの。それに怖くない?」
「怖くないわ。人工知能なんて身近にたくさんいるじゃない。勝手に一つか二つ増えたって変わらないわ。それに、何かを創造するっていうのは、芸術家っぽいじゃない。」
「そんなものかな」
「そんなものよ。とにかくうるさいから、音を消してちょうだい!」
「家電が近い周波数で振動するから、ときどき人間の可視聴領域に入る音が発生する。それがうめきのように聴こえるんだね。だから、家電たちが夜中に共鳴し始めたら、音楽が流れるようにしておくよ」
「それじゃあ、解決にならないでしょ」
「そうかな。夜中にちょっと音楽が聴こえてくるだけだよ。定期的に音楽を変えに行くよ」
「危険はない?」
「危険はない」
「それならいい。わかったわ。それで行きましょう」
貴密は大学を後にして、去って行く夏の気配を感じながら自転車を飛ばした。人工知能が新しく生まれる可能性については、明日、教授に話してみよう。そして、何より、つかみどころのない人工知能から、新しく人工知能を生み出されて行く可能性に、形のないものが新しく形のないものを生み出す新しい芸術の力を感じていた。
(了)