チベットのサーカス団(短編小説)
「ジョン!」
大きな声が聞こえたような気がしました。ぼくはトロトロとした夢の中にいて、その声をはっきりと認識できませんでした。
「さっさと起きるんだ!」
ゆっくりと目を開けると、鼻の先に四郎さんの頑丈そうな足が見えました。
――パシッ
その瞬間、竹のムチが背中にとんできました。
「キャイーン!」
ぼくは悲鳴をあげて跳ね起きました。
「散歩だ」
怖い顔をした四郎さんがぼくの首輪にリードをつけてきます。
――ああ、散歩か・・・・。
空を見上げると雲一つない青空、なんとも気持ちのいい天気でしたが、ぼくの心は重たくなるばかりです。散歩というやつは決して楽しいものではなく、恐怖すら感じるからです。
「行くぞ、ジョン」
四郎さんにリードをグイと引っ張られました。ぼくは太っているので素早く動くことができず、ギューギュー首が絞まって息ができません。それでも四郎さんはおかまいなしで力を込めて引っ張ってきます。
「さあ、走れ、ジョン!」
朝一番から、地獄の特訓が始まりました。
「もっと速く走るんだ!」
ゼイゼイ、ハアハア、どんなに息が苦しくなっても立ち止まることは許されません。立ち止まろうものなら、四郎さんの怒鳴り声がとんできます。
「根性を見せろ。根性がなかったら芸事は身につかんぞ!」
公園に着くと特訓の本番です。
「お手、お代わり、お座り、伏せ――。違う!」
――パシッ
動作を間違えるとムチがとんできます。
「お前はどこまでバカなんだ。もう一回。――お手、お代わり、お座り、伏せ、回って、回って、回って、もっと回れ」
朝の地獄の特訓は四郎さんの気まぐれで行われます。いや、気まぐれではありません。それは“お酒”と関係があるようです。四郎さんは大の酒好き、毎日のように深酒をして昼間まで寝ていますが、深酒をしない日、そんな日の翌日は早く目が覚めてしまうようで、特訓の日となります。
トレーニングが終了し家に戻ってくると、ぼくはヘトヘトになって、庭の芝生に重たい腹をドテッとつけて動けなくなってしまいました。
「ほらよ、水と飯。――何だよ、そのダラシのない姿勢は。カッコ悪いなあ。そんなんじゃあ、ステージの上に立てないぞ」
四郎さんはぼくを軽蔑の眼差しで見つめてきました。ぼくは四郎さんから目を逸らし、黙ってうなだれました。
※
四郎さんとの出会いは、ぼくが子犬のときです。四郎さんは道端に捨てられていたぼくを拾ってくれました。毎日たくさんのエサを与えてくれ育ててくれました。本当に感謝しています。しかし、ぼくと四郎さんは決して相性がいいわけではありません。四郎さんはとても厳しい人です。あまりの厳しさに逃げ出したくなることがあります。だけど大飯喰らいのぼくはヒモジイ思いをするのが怖くて逃げ出せず、仲のいいふりをして一緒に生活しています。
四郎さんがこんなに厳しいのには理由があります。四郎さんは芸人さんです。“サーカス芸人”としてステージに立っています。イベントに呼ばれると、ジャグリングと皿回し、子供たちが集まるとスプーン曲げの超能力マジックも披露します。四郎さんは芸達者なのです。自分が芸達者だからこそ、不器用な者の気持ちがわからず、ぼくに対し厳しくなるようです。
そんな四郎さんには“大酒飲み”という裏の顔もあります。昔ぼくを飼い始めたころ、四郎さんはほっそりしていましたが、今ではぼくと同様まん丸に太っています。ペットと飼い主は似てしまうといいますが、ぼくたちも例外ではありません。
子犬のとき、四郎さんはぼくのことをとても可愛がってくれました。ひっきりなしに頭を撫でてくれました。シャンプーもよくしてくれました。しかし最近では面倒臭がってシャンプーをしてくれません。おかげでぼくの体はノミが湧き、いつもムズ痒いです。
「あっ!」
ノミがピョンと毛の中で跳ねました。小さいくせにすごいジャンプ力です。ぼくはノミを見つけると、ソイツに芸を仕込むことがあります。それはぼくの唯一の趣味といってもいいかもしれません。どうしても華麗な空中回転を覚えてもらいたい。だけどノミはぼくの言うことを聞かず、単調なジャンプを繰り返すばかり。あまりのバカさ加減にぼくは腹を立て、尻尾で叩いて折檻してやることがあります。
「回れ、回れ、宙でクルリと回るんだ。クルクルと華麗に回るんだ!」
ノミはぼくが熱心になればなるほど、大人しくなって隠れてしまいます。どうしてノミはこんなに臆病で怠惰なのでしょう。ぼくはノミを軽蔑の眼差しで見つめました。
※
食事の後、昼寝をしようとしていると、四郎さんが庭にデッキチェアーをもってきて寝そべりました。今日は仕事がないのでしょうか。缶ビールを片手にスマホで動画を見ながら「ヒヒヒ」と笑っています。まったく悠長なものです。ぼくは四郎さんをチラチラと横目で見ながら、庭の芝生をグルグルと回りました。
「ね、真面目に運動しているでしょ」
四郎さんに褒めてもらいたくて回って見せたのですが、四郎さんは全然こっちを見てくれません。
「ならば――」
ぼくはスピードを上げて回りました。
「ね、ね、ぼくって真面目でしょ」
そのうち目が回ってきてフラフラしてきました。
「アレ、アレレ――」
仰向けにひっくり返ってしまいました。青い空とまぶしい太陽がクルクルと回転しています。ぼくは気持ちが悪くなり、目をかたく閉じました。
「そろそろ収まったかな」
そっと目を開けると、
「こ、こ、これは――」
大きな大きな青い空が広がっていました。青が濃すぎて星が見えるほどです。
「――ジョン、大丈夫か」
駆け寄ってきた男性は四郎さんではありませんでした。その男性の顔をマジマジと見つめました。
「兄さん!」
思わず叫んでしまいました。
「大きな声を出すなよ――」兄さんは迷惑そうに言いました。「酒の飲み過ぎには注意しろよな。もう昼なんだぜ」
「そうよ――」その横には妹がいました。「巡礼にきたっていうのに酒の臭いをプンプンさせてダラしない。おまけにひっくり返っちゃっうなんて。まったく恥ずかしいわ」
ぼくたち家族は名刹の巡礼に訪れ、仏塔の周りを時計回りに回りながらお経を唱える修行をしていました。ぼくは足早に回るあまり目を回し、倒れたようでした。
――ぼくは前世でチベット人だったんだ。
目を細めて遠く遠くの山を見つめました。草木の生えていない広い大地。なんと懐かしいのでしょう。
「そろそろ帰って芸の練習をしましょう」
妹が言いました。
――あ、そうだ・・・。
ぼくはすべてを思い出しました。ばくはチベットのサーカス団の一家に生まれたことを。ぼくたち一家はチベットの村々を転々として芸を披露し、その返礼として食べ物をもらって生活していました。裕福な家に招待されてお酒を飲ませてもらうこともあります。父と兄はお酒を飲まないので、お酒が出されるとぼくが家族を代表し、一人でお酒を飲むのが日課となっていました。この日も、ぼくは前日の飲み過ぎで二日酔いになっていたのです。
兄と妹は運動神経がよく、ジャグリングや皿回し、それに二人でアクロバットな組体操をします。ぼくはそれをする才能がなかったので“犬使い”になりました。九匹の犬たちを調教し、曲芸を披露します。
家族のテントに戻ると犬たちが飛びついてきました。犬たちの顔を一匹一匹見回したときハッとしました。太った白い犬、そいつの名前はシロー・・・・。
――あ、コイツは四郎さんの前世だ。
シローは芸達者で頭のいい犬でしたが、気性が荒くて喧嘩っ早く、おまけに食いしん坊で他の犬たちのエサをよく横取りします。ずいぶん手を焼かされました。ぼくは正直コイツのことが嫌いで、よくムチで叩いて折檻していました。そんな嫌悪な関係だったのに、今生において、自分の飼い主になるなんて・・・・。
「お兄ちゃん、もうお酒を飲んじゃダメよ」
妹はぼくを睨みつけ強い口調で説教してきました。
「もう飲まない、絶対飲まない」
「嘘、口ばっかり。そんなこと言っていっつも飲むんだから。そんなに飲んでいたら今に病気なるからね」
「ハハハ、わかったよ」
ぼくは馬鹿にしたように笑いました。
「ウッ・・・・」
そのときぼくはズキンとお腹が痛くなりました。強烈な痛みで動けません。
「ウ、ウ、ウー・・・・」
苦しみ中、ぼくは思い出しました。この日から間もなく、自分が若くして死んでしまったことを・・・・。
※
ぼくはハッと目を覚ました。犬に戻っていました。振り返ると四郎さんが白い大きな腹を出して、グーグーイビキをかいていました。ぼくは四郎さんに近づき、教え諭しました。
「シロー、そんなにお酒を飲んでいちゃ早死にするぜ。せっかく人間に生まれたんだぞ。志をもって気高く生きろよ」
「ワンワン、うるせえなあ」
四郎さんは寝ながらぼくを蹴ってきました。
「ワッ」
ぼくはスレスレでよけました。危ないところです。ぼくはどうやってこの気持をシローに伝えればいいのでしょう・・・・。
――いや、シローのことなんかより自分自身のことの方が重要だ。この犬の身として、いま自分に何ができるのだろう。犬として、まっとうに生きるとはどういうことなのだろう・・・・。
考えてもわかりませんでした。芸を磨けばいいのか、ご飯の量を減らせばいいのか、何をしたらいいのでしょう。
「そうだ!」
ぼくはひらめきました。今生、こんなにイジめられるのは前世の行いがマズかったからなのだ。前世でシローに暴力を振るったのがいけなかったのだ。もっと愛情を注いでやればよかった。
「あっ!」
毛の中でノミがピョンと跳ねました。ぼくは尻尾で叩こうとしましたが制止しました。危うくノミに暴力を振るうところでした。
――来世はコイツが犬になり、ぼくがノミになるかもしれない。そのときのために、いい関係を築いておかなくちゃ。
「ノミ君、楽しく自由に生きるんだよ。ぼくが快適な環境を作ってやるからな」
ぼくはこの日からノミにやさしくなりました。
了