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自分の文体をつくる。その2
デビューしたとき、私の文体は、昭和軽薄体の私なりの模倣だった。
とにかく笑わせたい一心で、ギャグばかり書きまくっていた。
ギャグ文体で気を付けなければいけないのは、自分だけが面白がってしまうことだ。つまりスベっているというか寒いというか、客観性に欠けた、笑えない文章になってはいけない。
だが、これが案外難しい。人はそれぞれ笑いの沸点が違うからである。笑いのツボは人によって違うだけでなく、そのときの気分や状況、年齢などによっても左右される。だから万人にまんべんなくウケるのはあきらめるしかない。
文章で笑わせようと思ったら、ある程度の逆風、つまり寒いとかわざとらしいといった感想がくるのは当然のことと考えておく必要がある。
それでも程度の差はあり、少しでも多くの人にウケるように書くにはどうするか。
最初はそのことばかり考えていた。
そのとき気づいたことがあった。
それは、自分が見たり経験したりしておおいに笑ったことは、文章にするとそれほど面白くならないということだ。小ネタ程度にはなっても、その文章の核となる笑いになることはまれである。
むしろ高い確度で笑えるのは、自分が凹んだり、ショックを受けたり、恥ずかしい思いをしたり、不満を持ったりしたことだ。自分がかっこ悪いこと、情けないこと、ダメなところ、が他人には面白いのであり、自分が面白いことは他人には面白くなかったりする。
例外はもちろんある。変な日本語看板みたいな、モノ自体に強烈なおかしみがある場合で、それはそのまま使えるけれど、そのぶん出オチなので一瞬で終わってしまう。
だから、エッセイのネタは、まず自分の心の揺れがあったかどうかで判断する。自分が動揺していればいるほどいいエッセイが書ける。自分の心が波立たず、頭だけで感心したり面白がったりしたことは、世の中に対する考えを書くいわゆるコラムのような真面目な文章で使ったほうがいい。エッセイのネタには向いていない。
で自分の動揺を話の中心にすえ、オチのセリフをだいたい決めてから書きはじめる。
冒頭には小ネタを入れて、爆笑は無理でもニタっとしてもらう程度にがんばる。オチは自分の動揺だから、最初は意気揚々としていたり、自信満々であったりすると落差が際立っていい。そういうだいたいの流れを意識しつつ、ときどき脱線ネタを入れて構成していく。
そうやって書いたのが、デビュー作『旅の理不尽 アジア悶絶篇』と、第2作『東南アジア四次元日記』だった。
案の定、一部読者からは、はしゃぎすぎといった感想も聞こえてきたが、それは気にしない。
むしろ問題はそこではなかった。この2冊を書いたあと、いきなり私は書けなくなってしまったのである。
というのも、今説明したようなそこまで自分が動揺するようなことが次々と起こらなかったのだ。動揺を文章の核にしていたことがあだになり、瞬く間にネタが枯渇したのである。
デビューしたばかりなのにもう書けないとは。
私は頭を抱えた。
このとき採りうる方法は3つあると私は考えた。
①自分が動揺するシチュエーションを無理にでも作る
②笑いを捨てて、何かを調べて真面目なノンフィクションを書く
③動揺がなくても笑える文体をさぐる
まず最初に①は捨てた。
つまりどんどん過激なことをやって自分を窮地に追い込んでいくわけで、それは最終的にインフレーションを起こし、次々とやりたくもないことを体をはってやるハメになりそうだったからだ。さらにそんな無理やりやってる感は絶対読者に伝わってしらけさせるだろうと考えた。
②はあり得ると思ったが、笑いが好きなので、できれば笑いにこだわりたかった。そもそもノンフィクションがやりたくて物書きを目指したわけではなかった。
というわけで③を選択したわけだけど、これはこれで大変な道だということに気づくことになる。
つづく