本格的でない旅
今日は、本格的でない旅と題しまして、旅の魅力についてお話したいと思います。
なぜ本格的でない旅の話が、旅の魅力に迫ることになるのか、疑問に思われるかもしれませんが、そういう人にこそ聞いていただきたいと思います。
旅といってもいろいろありまして、家族旅行もあれば、新婚旅行、社員旅行、一人旅もある。週末にちょっと近所の保養地へ出かける旅もあれば、団体ツアーで名所を回ったりですとか、あるいは何ヶ月もかけて船で世界一周する、また、終わりを決めずに気の向くまま、ふらふらとそのとき行きたいところへ行くような自由な旅もある。いろんなスタイルがあります。
私は20代、30代の頃、よくひとりで海外旅行をしました。いわゆるバックパッカーというやつで、重たいザックを背負って、何ヶ月もアジアを歩き回りました。今日の行き先も、今夜の宿も、その日に決めるようなそんな旅でした。
当時私は、自分がやっているのは単なる観光旅行ではない、そう思っていました。団体ツアーでは行かないような小さな町を訪れたり、そこで現地の人と仲良くなって家に泊めてもらったり、ピクニックに連れて行ってもらったこともあります。
そういうことはツアーではできないので、自分はツアーに参加するような人たちより一段、質の高い旅をしていると自負していました。
おそらく同じように思いながら旅をしていた若者は当時少なくなかったように思います。自分の旅はオリジナリティがある。他の人とは違うんだと思いたい。そんな心理が心の奥に芽生えることがあるんですね。
結果として、自分がいかに珍しい体験をしたか、あるいは人の行かないところへ行ったか、といったことなどで、旅で出会った日本人旅行者同士が張り合うような状況も生まれていました。
そのほか、バックパッカーでなくても、ただの観光旅行なんてくだらないと考える人に、ときどき会うことがあります。そういう人に言わせれば、観光旅行などは本格的な旅とは言えず、表面的だというわけです。
私自身も、かつてはどこかそういう考えに囚われていたような気もします。
ただそういう気持ちで旅をしていますと、だんだん無理がくる。誰かに勝つために、あるいは人の尊敬を得るために旅をしているわけじゃないんですね。そんな思い込みのせいで、本当は自分が行きたいと思っていない場所に無理やりに出かけてみたりするのは、不毛な話だと思います。
私もあるときから、もっと自分に正直に旅をしてみようと思うようになりました。
誰も行っていないからそこへ行くのではなく、自分が行きたいからそこへ行く。そこが誰もが行くような有名な観光地であろうとなかろうと、どうでもいい。そう思うようになったわけです。考えてみれば、ごく当たり前のことです。
そもそも旅の魅力とはいったいなんでしょうか。
知らない世界を見ることで自分の視野を広げること、日常では出会うことのない人にと触れ合うことで新しい価値観を知ること、そういった経験はとても有意義であり、たしかに価値のあることだと思います。
けれど、何かを得て帰って来なければ、何らかの人間的成長が伴わなかったら、その旅は意味がないと考えるのであれば、それは旅の本質を実は見逃しているのではないかと思うのです。
何の役に立たなくてもいい。知識が増進したり、価値観が変わったりしなくても、そのときその瞬間に自分がその場所にいたということ、それだけで意味があるのではないかと私は考えています。
いや、たとえ仮に、知識の増進や価値観の変化が旅の重要な要素だとしても、それはもうその場にいるというだけですでに達成されていると言えるのではないか。その場の光景を生で見たというだけでなく、音を聞き、匂いを感じ、風や湿度まで感じている。それだけでも、旅に来なければ知りえなかった情報を得ているのです。
私は旅に出ると、そういった生の感覚を大事にするようにしています。たとえば初めて訪れる国の空港に降り立ったときに感じる暑さや寒さ、空港の持つ独特な雰囲気、読めない現地の文字、そういったものに囲まれたその瞬間、もうそれだけでワクワクした何かがこみあげてきます。
市内へ向かうバスの窓から見る風景。ホテルのフロント係とのやりとり。聴こえてくる騒音。知らない言葉。珍しい食べ物。すべてが新鮮で、五感を刺激します。
そういったことは、すでにある程度ガイドブックに書いてあるかもしれない。あるいはテレビで見たかもしれません。けれど、頭で理解した知識と、現地で生で感じた情報には、その濃さ、密度において、大きな違いがあります。どんなに事前の知識があった場合でも、現地に来てみると、新しく気づくことがある。
私は最近、旅する意味とは、まさにそこにいるということ、それでほぼすべてなんじゃないかと思うようになりました。
私は先日、インドのラダックという地域を旅行しました。
ラダックはチベット高原の一部で、さほど多くの日本人観光客は訪れませんが、簡単に行くことができ、辺境というわけではありません。そんなラダックを観光する途中で、高度5000メートルの峠を越えたことがありました。その峠の周囲には、ほとんど何もなくて木も生えていない不毛な大地が延々と続いていました。
そんな殺風景な大地を車で走っていると、あちこちに大きな崖といいますか、岸壁が立ちはだかっているのに出会います。写真で見れば、ただ大きな崖なのですが、自分の目で見ると、その大きさに圧倒されます。これはほんとに大きいなと、思わず唸ってしまうほどです。
私はその大きさに心動かされて、何か神々しいものを感じました。神様の存在を感じたというわけではありませんが、とにかく神々しいとはこういうことだと思ったのです。
それはその場に行かなければ決してわからない感情でしょう。テレビでその大きさは伝えられるかもしれません。でもその地形の持つ神々しさは伝わらない。映像で見てもあの感じが伝わることはないと思います。それはただ大きいという見た目の情報以上の何かだからです。現場に立って初めて感じることのできる感情なのです。
私は旅の魅力の本質というのは、つまりそういうことなのではないか。とにかくその場にいるということ。そこに来たということ。そしてその場所を生で感じるということ。
それは、どんな知識を得た、どんな珍しい体験をしたという以前の何かが、重要なのだということなんだと思います。
もちろん国内旅行でも同じことです。
たまに、どこも観光地化されてしまってつまらないという人がいます。その人は、まだ観光地化されることで、何か大切なものが失われると思っているわけです。でも本当にそうでしょうか。
たしかに観光地というのは、行ってみると、そこらじゅうに電線が張り巡らされて景色が台無しになっていたり、お土産屋がたくさん並んで騒々しかったり、観光客がいっぱいいて雰囲気に浸れないことがあります。ガイドブックで見たときは、もっと趣きがあったような気がする。そういうものです。
けれど見方を変えれば、観光地化されていると感じる場所にも、興味深いところはたくさんあります。ひょっとしたら百年後の未来人から見れば、お土産屋が一番面白いかもしれない。その観光地化された全体が、現代の民俗、風俗だとも言えます。
それに、ちょっと脇道にそれたところで知らない何かに出会うかもしれない。
あそこは観光地化されてつまらないというのは、あくまで自分が想像できるものの枠内で考えているからではないでしょうか。仮に期待通りのものがそこにあったとして、それを見て期待通りだと喜んでも、とくに面白くない気がします。むしろイメージしていなかったものや、想定外のもの、たまたま五感に触れたものとの出会いによって、混乱したり驚いたりすること。そっちのほうが面白い。
結局、旅が面白いのは、予想していない何かが不意に襲ってくることではないでしょうか。
何かを得てこなければ意味がないとか、ただの観光旅行はつまらないとか、そんなふうに考えることはなくて、重要なのは、とにかく現場に立つこと。旅が高尚なものにならなくても、俗な観光旅行で終わっても構わない。とにかくそこに行く。
その結果、何ひとつ新しい知識が増えなかったとしても、その場に立ちさえすれば、それだけで五感は働きます。そしてその感覚を研ぎ澄ますことで、旅は本当の意味で豊かなものになるのだと私は思います。
NHK「視点論点」2015.2.3