多摩ニュータウンの遊歩道に極上の迷路を見た
■1■ 多摩ニュータウンの遊歩道
私は思春期のほぼすべてを大阪の千里ニュータウンで過ごした。10歳のときに近隣の市から引っ越してきて、22歳で就職して東京に出るまで、12年もの月日を過ごしたのである。
なので、もし「あなたのふるさとはどこですか?」と訊かれたら、「千里ニュータウン」と迷いなく答えるだろう。
私が千里に越してきた70年代の半ば頃は大阪万博の記憶もまだ新しく、ニュータウンといえば文字通り「ニュー」な「タウン」として誰もが未来的なイメージでそれを捉えていたが、いつの頃からか、人工的で多様性のない非人間的な街と言われることが多くなっていったように思う。
どこかのニュータウンは自殺者が多いなどと嘘か本当かわからない噂を持ち出されたりすると、そう言われてみれば息が詰まるようなところはあるかも、と妙に納得したような気にさせられたものだ。
実際、子どもの足で行ける範囲は同じような街並みが続いていて単調だなあとは私も思っていた。単調だけれど、安全で清潔な印象もあって嫌いではなかったのだが、できれば、どこに通じているのかわからない謎の小道とか、角を曲がると突然異世界のような風景が広がるとか、そういう場所がもっとあったらいいなと子ども心に感じていたのはたしかだ。
そのせいだろうか、当時、道路上の突起物や白い線の上を陸地、それ以外を海に見立てて、海に落ちないようにどこまで行けるか冒険するのが自分のなかで流行っていた。たったそれだけで単調な街が死と隣り合わせのドラマチックな世界になる。今思えば“子どもあるある”だとも思うが、自分なりに単調さを回避する方法を模索していたのかもしれない。
千里ニュータウンを出てはや数十年、現在の私は東京の多摩地区に住んでいる。多摩ニュータウンではないけれど、ときどき多摩ニュータウン方面に買い物に出かけることもある。
あるとき、漠然と地図を眺めていて、多摩ニュータウンには遊歩道が多いことに気がついた。グーグルマップで見ると、歩道を示す緑色の細い線が、車道を示す白の二重線の間を無数に走っている。周囲の街と比べて、明らかに緑の線が多い。
車道と歩道を分離して安全性を高めるのは、住宅地設計の基本だ。
かつての千里がどうであったか細かいことは忘れたが、どこも歩道が広く、どこにいても少し歩けばすぐ公園が見つかったことを覚えている。多摩ニュータウンも地図で見る限りそんなふうに設計されているようだった。
そうしてふと思ったのである。
この歩行者専用の遊歩道を陸とし、車道その他を海としたとき、海に落ちずにどこまで行けるだろうかと。
多摩ニュータウンの遊歩道はまるで毛細血管のように縦横に走っており、迷路になっていると言ってよさそうだった。しかもそれが相当広範囲に広がっているくさい。
地図を見ているうちに、多摩ニュータウンが魔の海に浮かぶ回廊のように思えてむずむずしてきた。
この迷路を車道の海に落ちずにどこまで行けるか歩いてみたい。というわけで梅雨明けを待って多摩センターへ出かけたのである。
■2■車道の海に落ちないように
多摩ニュータウンは、東京都西部の稲城市から多摩市、八王子市、町田市にまたがる東西に長いニュータウンだ。おおむね京王相模原線に沿って展開しており、駅でいえば若葉台、京王永山(小田急も併設)、京王多摩センター(小田急も併設)、堀の内、南大沢のあたりまでが含まれる。
千里ニュータウンの当初の事業計画面積が1160ヘクタールだったのに対し、多摩ニュータウンは2884ヘクタールの街として構想され、現在はさらに範囲を広げて、その規模は日本最大と言われている。
千里ニュータウンもそうだったが、隣接する地域にも民間によって次々とマンションなどが建設されていくため、実際問題どこまでがニュータウンなのか、年を経るにつれて曖昧になっていくようだ。
それでも中心ははっきりしていて、千里ニュータウンなら千里中央、多摩ニュータウンでは多摩センターがそれである。
この日、多摩センターは暑かった。
べつに多摩センターでなくても暑かったと思うが、とにかく暑かった。
同行してくれることになった編集部のSさんは多摩センターに来るのは初めてだそうだ。東京23区に住んでいたら、多摩ニュータウンに来ることはまずないだろう。それはニュータウンの特性でもある。
ニュータウンには住民以外用事がない。
基本ベッドタウンだからだ。
もちろん、最近はニュータウンに敢えてオフィスを構える企業もあるし、自治体のほうでも文化施設や遊戯施設を誘致して集客を図ったりするので、必ずしも用事がないわけではないが、まああんまり来ないのは確かだろう。
さて地図で予習したところでは、京王多摩センター駅から隣の京王永山駅まで、一度も海に落ちる(車道を通る)ことなくたどりつけるようだ。多摩市が発行しているガイドマップを見ると、たしかに繋がっていた。なので、まずは京王永山駅まで行ってみようと思う。
【遊歩道・多摩よこやまの道ガイドマップ/多摩市ホームページより】http://www.city.tama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000004/4066/201711mapomote.pdf
このマップを見て驚いたのは、多摩ニュータウンの遊歩道は全長41キロあると書かれていたことだった。めちゃめちゃ長い。ほぼフルマラソンができる距離だ。
一本道ではないので一筆書きで走ることはできないものの、いくつかのモデルルートが設定され、長いルートは8キロほどあるようだった。どんだけでかいんだ多摩ニュータウン。
このマップを見ればたどるべきルートは誰でもわかるが、今回は自分なりのルールを設けて、それに則って京王永山を目指したい。
何度も言うように、今回の散策では海に落ちない(車道を通らない)ことを絶対の条件とする。
横断歩道も渡らなければ、車道に沿った歩道も通らない。たとえば写真のような場所。
ほんの数メートル車道を横断するだけで対岸の遊歩道に接続できるが、通行不可である。信号機のあるなしは関係ない。なぜなら、ここは海だからである。ここを渡ると、ふとした隙にサメに食われるかもしれない。
また車道と歩道が潅木帯などできっちり区分されていたとしても、車道に沿った歩道は通れないこととする。獰猛なシャチが波打ち際までやってきて陸上のアザラシを襲う動画を見たことがある。たとえ間に潅木があっても油断は禁物だ。
つまり、交通法規では守られていても、運転側の何らかのミスによって車が突っ込んでくる可能性がある場所はすべて通行不可ということである
事前に調べたところ、京王永山駅まで海に落ちずに行くには、京王多摩センター駅を出てすぐに東に向かわず、しばらく南下してから回り込む必要がある。
なのでわれわれはまず駅から多摩中央公園を目指して歩きはじめた。
■3■自然の地形を活かした街並み
多摩中央公園は駅の南に位置し、駅から広いペデストリアンデッキがまっすぐに続いている。ホールなどを擁するパルテノンと呼ばれる文化施設が中央公園の入口にあり、周囲にはショッピングモールや映画館などが集積して、なかなかのにぎわいであった。
左手に伸びるペデストリアンデッキの先にはサンリオピューロランドが見える。
サンリオピューロランドは多地区から多摩センターに人を呼んでくれる集客装置であり、駅周辺にもハローキティのディスプレイがあちこちに散りばめられている。
多摩中央公園に入り、そのまま北から南へ縦断した。途中に池と広い芝生の広場があって気持ちがいい。
多摩ニュータウンはそこらじゅうに公園があり、遊歩道も公園を繋ぎながら歩いていくような感じである。「どんぐり山公園」の横を通り過ぎて、「さくら通り」と呼ばれる遊歩道を南下。途中「落合けやき通り」という車道を陸橋で越える。
陸橋といってもありがたいことに階段を昇る必要はない。遊歩道と陸橋が同じ高さにあるのだ。歩いてみてわかったのだが、街全体がかなり凸凹していて、車道は低いところを走るように設計されているようだ。一方遊歩道は高いところを通り、車道の谷間を跨ぎこえていく。
これはなかなかいいアイデアだ。車道と歩道を分離するといっても、ふつうの陸橋の場合、人間はわざわざ階段を登るぐらいなら道路を横断してしまおうという誘惑にかられやすく、現実的にはかえって危険である。
その意味では多摩ニュータウンの、街の大半が宙に浮いているような構造は、理想的な土地との出会いによって可能だったと言えるのかもしれない。
多摩ニュータウン構想には当初「自然地形案」というものがあったそうである。
基本構想は昭和38年に第1次案が作成され、その後2年かけて第6次案まで作られ最終決定されたが、このとき第7次案として「自然地形案」が提案された。
それは造成工事をなるべく減らして、自然の地形のままに街を作るというもので、その場合、集合住宅の多くが斜面に建てられる計画だった。最終的にこの案では地形に合わせた多様な住宅を設計する必要が生じ、規格化された集合住宅を大量供給し手間を低減することができないという理由で見送られたという。
しかし出来上がった現在の街も、私から見れば「自然地形」を十分に活かしているように思える。
もともとの地形を知らないが、「自然地形案」通りに地形を残していたら、もっともっとアップダウンの多い街になっていたのだろうか。
■4■クリティカル恐竜橋
「さくら通り」から「そよかぜのみち」に出たところで東に折れた。この「そよかぜのみち」は重要で、これこそは多摩ニュータウン遊歩道ネットワークにおける最重要幹線である。
多摩センター駅周辺ゾーンから永山駅周辺ゾーンへ海に落ちることなく行けるのはこの道のおかげであり、そのほかの遊歩道では途中南北に走る車道「青木葉通り」や「上之根大通り」を横断できない。もちろん横断歩道を渡ればいけるが、それは今回の設定では、死を意味することになっている。
遊歩道内には分岐がたくさんあり、事前情報なしに目的地へ向かうのは至難の業だ。なかにはちょっと行ってみたくなる脇道もあるが、行ってみるとやがて車止めに突き当たりその先は恐ろしい死の海となっている。
やがて恐竜橋に出た。
恐竜のモニュメントがある印象的な橋だ。
この恐竜橋は、多摩センターから永山へ抜けるたまには必ず通過しなければならないポイントであり、ここに来たということはここまでの道が間違っていなかったことを示す。
「これ、左右で阿吽になってるんですね」
とSさんが言った。
なんのことかと思ったら、恐竜の口が右は開き、左は閉じていた。
なかなか粋な仕掛けだが、なぜ恐竜なのかは謎だ。
恐竜橋を渡るとやがて南北に走る「落合東遊歩道」にぶつかるので、これを北へ折れ、すぐにまた東に向かう「なかよしこみち」に入る。このあたりが、今回の多摩センター=永山ルートの核心部である。
下校中の子どもたちが大勢歩いていた。
学校はたいてい遊歩道に連結しており、車道を通らずに通学できるのは素晴らしい。
豊ヶ丘の「医者村橋」を渡ると、小さな商店街があったが、ほとんどの店がシャッターが閉まったままだった。
「医者村橋」という名前は、近くに診療所が並んでいるからだと思うが、ネーミングに苦労のあとがうかがえる。多摩ニュータウン遊歩道の橋はどこも景観がよく似ており、違いがわかりにくい。なので恐竜のモニュメントで飾ってみたり、名前で情景が浮かぶようにしたのだろう。線路が見える「電車見橋」なんていうのもある。
後日この「電車見橋」にも行ってみたので、そのときの写真を載せておこう。京王永山駅からさらに東へ進み、京王線と小田急線を跨ぐところにある橋である。
■5■歩車分離という遺産
遊歩道にはそこらじゅうにトイレがあるのも便利だった。
歩いていると次から次へと公園が現れ、少し大きな公園には必ずトイレがある。これは助かると思ったが、後に妻にその話をすると、ちょっと怖いと言っていた。
そもそも車道と分離された遊歩道自体が怖いと彼女は言う。車が通ると思うから夜の道を歩けるのであって、車は来ないし、公園や緑で暗がりが多い道など歩きたくないそうだ。
なるほど。
おっさんだから気づかなかった。
多摩ニュータウン学会発行の雑誌「多摩ニュータウン研究」にも、2008年3月号に『多摩ニュータウンにおけるこどもをめぐる犯罪の発生実態と環境要因に関する考察』(上野淳、松本真澄、崎田由香)という記事が載っており、実際子どもに対する犯罪は、遊歩道上と公園に集中しているというデータが出ていた。学校や幼稚園前でも起こっているところを見ると、遊歩道の緑化や公園の充実が、必ずしもいいことばかりではないことがわかる。
実はそれにも関連すると思われるが、パルテノン多摩(公益財団法人多摩市文化振興財団)が発行する『ニュータウン誕生 千里&多摩ニュータウンに見る都市計画と人々』が2018年に発行した冊子のなかに衝撃的な事実が書かれていた。
そこにはまず「つながる公園」という項で《昭和57年(1982)から入居が始まった地区では、公園や歩行者専用道路が街の骨格となるようネットワーク状に設計されました》と書いてあってまさに今歩いている遊歩道のネットワークの発生時期が記されているが、ページをめくるとすぐに今度は「歩車共存へ」という項があり、こう書かれていたのである。
《歩車分離によって街の安全性は高まりましたが、さみしい印象の街並みを生み出しました。(中略)1980年代後半以降に開発された1・2・3住区(稲城市域)では、歩車分離しつつも、店舗などを道路沿いに配置して、歩車共存の「普通」の街並が誕生しました。》
横には、幅広い潅木帯で車道と分離されたある意味普通の歩道の写真が添えられていた。
なんと、今私が楽しく歩いている歩車完全分離スタイルは、80年代後半にはとっくに放棄されていたのだ。
80年代前半に導入されたと思ったら、80年代後半には放棄されたってどんだけ短命なんだ。蝉かよ。
”さみしい印象の街並み”という言葉が刺さる。
たしかに今見たばかりのシャッターの閉まった商店街は、まさにそのことを如実に表している。
道理で、と私は了解した。
多摩ニュータウンの遊歩道ネットワークを地図上で発見したとき、ならば全国のニュータウンにも同じような遊歩道があるのではないかと、筑波学園都市や港北ニュータウン、千葉ニュータウンなども見てみたのである。ところが多摩ほど遊歩道が発達しているところはひとつもなかった。
落胆すると同時に、この瞬間、私のなかで多摩ニュータウン遊歩道ネットワークの存在価値は一気に跳ね上がった。
そうか、これは遺産なのだ。
80年代、つまり昭和時代の遺産──いや、それより私はこう言いたい。
多摩ニュータウンの遊歩道は、「日本迷路遺産」だと。
遊歩道の迷路性に着目するとき、多摩ニュータウンは歴史に残る異形都市として記憶される。こんな遊歩道は日本唯一であり、普通に「日本遺産」に認定されてもいいぐらいだ。41キロもよくぞ作ってくれた。
これまでにこの連載で紹介した横須賀や飛騨金山、雑賀崎などの街並みも当然この「日本迷路遺産」に認定できそうだが、多摩ニュータウンがそれらと違うのは、歴史的に新しい(高度経済成長時代にできた)迷路であるということのほかに、すべてが人為的に計画された街である点だ。迷路状の街はたいてい自然に出来あがってしまうもので、気がつけば迷路になっていたという成り立ちが一般的だ。しかし、ここは最初からその形に設計されたのである。
もちろん迷路を作ろうと思って作ったわけではないだろう。奇しくも、歩行者の安全を一途に考え徹底した歩車分離を図った結果が、迷路として結実したのだ。
■6■多摩ニュータウンの多様な魅力
散策を続けよう。
貝取郵便局を過ぎて北へ曲がり、コミュニティセンターの角でまた東へ折れると、トンネルが現れた。
車道と歩道の立体交差は、歩道が車道上を橋で渡っている部分が多いが、まれにこうした車道の下をくぐる場所もあって面白い。
遊歩道が「鎌倉街道」を渡った地点で、「瓜生緑地」に入ろうとしたが、遊歩道(写真右手)と「瓜生緑地」(写真左手)の間の車道には橋もトンネルもなく、横断歩道を渡らなければ行けないようになっていた。
残念。ここは海に落ちるルートだ。
仕方なく引き返し、大きく迂回する。
「貝取さんぽ道」を北上し、貝取北公園で東に折れて「鎌倉街道」を越え、「諏訪永山ふれあいのみち」を永山南公園まで歩いたら、そこから北へ曲がって一気に京王永山駅へ向かった。
「この道は、団地好きにはたまらないでしょうね」
とSさんが言った。
「いろんなタイプの団地が次々出てきますからね」
そう言われて自分がここまでまったく団地を見ていなかったことに気がついた。千里ニュータウンで育った私には、団地は風景の一部みたいなもので面白みを感じる存在ではないが、たしかに昨今は団地ブームだから好きな人にとっては見どころが多いだろう。
団地だけではない。古びた商店街や、ちょっとした標識やサインなどに昭和テイストが香っていることも少なくないので、昭和レトロ好きにも響くのではないか。自分はつい迷路にばかり気持ちがいってしまうが、人によって面白さはいくらも見い出せそうである。
やがて遊歩道上には黄色の点字ブロックが現れた。駅が近いことを思わせる。
そうして道も街区も新しい感じになってきたと思ったら、多摩センターを出て約2時間で京王永山駅に到着した。
もっと迷うかと思ったら地図を見ていたので簡単であった。
毎日5~6キロ歩いているというSさんもまったく疲れていない様子だ。
この日歩いた距離は6キロ程度だろうか。全体で41キロある遊歩道のほんの一部に過ぎない。全部を歩き尽くすのはさすがに大変だけれども、この程度では物足りないので、日をあらためて今度はひとりで遊歩道の東西南北の先端まで行ってみることにした。
■7■人工の街だからこその迷路性
まず西の端は鶴牧西公園である。この公園より先は海になっていて、その突端からはコメダ珈琲が見える。ここから小田急線の唐木田駅まではほんの1分ほどの距離。多摩センターからひと駅分歩いたことになる。
あとで地図を見て知ったのだが、このあたりは昔「禁断の地」と呼ばれていたらしい。ニュータウンができる前は人魂が出たりしたというから本気だ。そんな心霊スポットも今では隣にコメダ珈琲ができるほど脱色されている。工事をしようとすると事故が起こるのでそこだけ昔のままに保存されたスポットがたまにあるが、ここはそんなことにはいっさいお構いなく、呪いもへったくれもあるかってな具合にニュータウンが塗りつぶしたのである。ニュータウン最強。
最南端にも行ってみた。
最南端は一本杉公園で、野球場やじゃぶじゃぶ池があって、子ども連れでにぎわっていた。
これら最西端と最南端は、多摩センター駅からいくつものルートがあり、この一帯は比較的遊歩道が充実している。
大変なのは最北端、最東端だ。両者はほぼ同じ場所にあり、それぞれ大谷戸公園、桜ヶ丘公園と名前は違うが一帯全体がひとつの公園になっていた。
ここへ行くには京王永山駅からいったん南下、「諏訪永山ふれあいの道」に出たら東へ折れ、途中「電車見橋」を渡って「多摩東公園」の陸上競技場の前を北へ進み、「聖ヶ丘遊歩道」を伝って行く。車道の海に落ちずに行くにはこの道一本しかないせいか、ここまでくると景色はニュータウンでありながら、気持ちのなかではものすごい辺境に来た気分であった。
そうして到達した最東端には、明治天皇御野立所跡の碑が立っていて、西の「禁断の地」とトポスの濃度において対をなしている。一方の最北端にはただ駐車場があるだけだ。
この先もニュータウンは普通に続いているものの、私には地の果ての悲しみが漂っているように見えた。
最後に何日かかけて歩きまわった多摩ニュータウンの遊歩道だけを抽出し地図に落としてみた。左のグリーンが京王多摩センター駅で、右が京王永山駅である。瑣末な盲腸線や、両駅から海に落ちずにたどりつくことができない遊離した歩行者道路は省いている。
比較的南北方向の遊歩道が充実しているのは、多摩ニュータウンが南北に走る谷戸の連続した土地の上に建設されているせいだろう。ちょうど電車の線路と平行して東西に走る乞田川から、南方向に幾筋もの谷が枝状に走る土地柄なのだ。
思い付きで始めた多摩ニュータウン遊歩道「陸と海の大冒険」だったが、思わぬ大迷路の発見にいたった。
迷路などなさそうな人工都市なのに、しかも誰も迷路を作ろうと思ったわけではないのに、それは出来上がっていた。むしろ人工的であるがゆえに迷路度が高まっていたとさえ言える。
どういうことかというと、どこにいても目の前の光景にほのかな既視感があり、地図がなければ周囲の景観からは現在地を特定できなそうな場所がたくさんあるために、
「ここ前に通ったような気がする」
「さっきから同じ場所をぐるぐる回っている気がする」
というサイコホラーな展開が期待できるからである。
景観が単調で人間的でないとか、“さみしい印象の街並み”などと批判されたニュータウンの特性(ほぼ住宅と公園と学校しかない)が、奇しくも極上の迷路を形成する基盤となったのである。
※「建設の匠」から転載