発掘エッセイ:年末年始と『幻海』の話
このたびの年末年始は何の予定も入っていなかった。
そこでじっくり本でも読もうと伊東潤『幻海』を読み始めたのである。
私は、謎の国とか、幻の世界の話が好きで、『幻海』は伊豆半島の南端に謎の海人国があったという想定なので、おおいに心惹かれ、わくわくしながら読んでいった。
そもそもこの海人国の存在する場所というのが、南伊豆の中木付近にあたり、そこは夏に何度か泳ぎに行った勝手知ったる漁村であり、そこから船で崖の下にある浜に渡ってシュノーケリングするのが楽しみだったのである。あの場所にいったいどんな架空の国が描かれているのだろう。
ところが、そうやって気持ちよく読書していると妻が怒るのであった。
近所の子どもはみな旅行に行ったり帰省したり親戚が集まったりして、ただでさえ子ども人口の少ないわがスットコランドは、実に閑散としている。わが家の子どもたちは誰も遊ぶ相手がなく、家に籠もってテレビばかり見ている。かかる状況下においておぬしは、ひとり読書にうつつをぬかし、まったく子ども対応しようとしない。主婦は年末年始などかえって忙しいばかりで、そのうえに子どもにテレビばかり見るなとか、宿題しろとか、ああだこうだ言わねばならない私の苦労を何と心得る。おのれが子どもを何とかせんかい。
んんん。妻の言わんとするところはわからんでもない。
しかし私とて、ただ好きで『幻海』を読んでいるわけではないのだ。このたび本の雑誌で新連載を始めることになったので、よし、この新連載はかつて書いていた日記の続編のような、それでいて日常エッセイでもあり、時には紀行エッセイだったりもするような連載にしようという大雑把な方針を決めたはいいが、書こうとすると大雑把すぎて何書いていいかわからず、んああ、いったい何を書いたらいいんだと思案呻吟した挙句の果てに、結局は、何はともあれ本の雑誌に書く以上は、本か雑誌について書かねばなるまいと、今一番気になる本を手に取ったわけなのだ。
だからこれは仕事なのだ。
しかし寝室の暖かい日のあたるベッドの上で、『幻海』を読んでいると、ぽかぽかと気持ちよくて、なるほどかつて西伊豆の戸田の港はそういうことになっていたのか、行ったことあるぞ戸田、あそこにはたしか深海生物の博物館があって、それはそれは風光明媚な、風光明媚な……ふうこうめいび……むにゃむにゃとかいってるちょうどその瞬間に、いきなりドアを開けて妻入ってきたりして、おお、寝とるやんけ、いい度胸しとるやんけ、と厳しい視線で睨み倒され、違うんだ、これは仕事なんだと申し立てたいのはやまやまであったが、これがどう見ても客観的には言い逃れくさい。
でも言い逃れでは断じてないのである。
そうなのだ。この瞬間にこそ物書き稼業の哀しみは集約されていると、私は思う。
何かを書こうとすれば沈思黙考する時間が絶対に必要になる。しかし私が沈思黙考しているときに限って、妻が入ってきて、鬼の首を取ったような形相で、灼熱の〈自分ばかり忙しくて損〉光線を放ってくるわけである。どういうわけか、入ってくるのは、キーボードを神がかり的に打ちまくっているときではなく、いつも沈思黙考中だ。
締め切りは近づいている。私は何か書かなければならない。そのためにこの本を読んでいる。読んだ結果、原稿にそれが活きるかどうかはまだわからない。無駄になるかもしれないけど、読まなければ何も進まない。
私のこのような砂を噛むような努力は、妻にまったく理解されていない。
いつも遊んでいるか、そうでなければ寝ている。
私に対する妻の評価はいつもこのように不当なものだ。たしかに外見上、楽そうに見えるのは認めるが、その瞬間こそ、外見上の弛緩した印象とは裏腹に、脳内では、まさに激しい大激論が交わされているときかもしれないのだ。
仕方ないので、家族を連れて箱根にドライブに行くことに決めました。
悔しいかな、沈思黙考を含む私の就業時間は一日最大で5時間いけばいいところであり、会社勤めのときは8時間労働だったのにそこはどうなの、という想定される論難の不条理と、物書き稼業の葛藤とについては、これからも粘り強く考え続けていきたいです。
で『幻海』はといえば、いよいよ怒涛のクライマックスを迎え、まるで映画を観ているような気分に浸る一方、期待していた謎の国の描写については、これは、よく知ってるあの場所じゃないか! なんて楽しめるかと思いきや、土地柄についてはあまり出てこず、その点少々不満が残ったのであった。
本の雑誌2012年1月頃
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