【小説】御祝い申し上げます
その日、私ははじめての個展をむかえていた。
芸術大学を卒業後、イラストレーターとして働きながら、コツコツ作品づくりに勤しみ、一年前に独立。フリーランスの絵描きとしていろんなものを描いてきた。
描きたいものだけ描けるわけではない。それでも、自らの個性を、想いを乗せて、すべての仕事に全力を注いできた、つもりである。
そして、今日。
オープンから数時間経つが、ギャラリーはまだまだ賑わっている。
家族、親族、芸大時代の仲間、これまで仕事で関わってきた方たち、多くの人が足を運んできてくれている。いままでのすべてがムダじゃなかったのだと、オープン早々に感極まって泣き出した私を、からかいながらも温かく讃えてくれるみんな。
ご祝儀もあるだろうが、いくつかの作品はすでに買い手がついていた。
今回の個展のテーマは『イキ』。いろんな“イキ”を描いてみた。
そんな中でも、今回一番力を注いだ作品の前に、もう1時間は立ち尽くしている人がいる。知人ではない彼女はただ、じっと作品を見つめ続け、ときに笑みを浮かべ、ときに涙を浮かべ、作品と一喜一憂しているその空間は、周囲に人を寄せつけず、そこだけすっぽりと空いていた。
こういうとき、どうすればよいのだろうか。ほかの方たちに見てもらうために声かけをするべきか、しかし、あんなにも気に入ってくれているのに、それを途中で遮るのは気が引ける。
スーツ姿の彼女は、40代そこそこだろうか、小柄で細身、肌は透きとおっているかのように白く薄化粧、艶やかな黒髪ロング、なんとなく、幸の薄そうな見た目をしている。
そんな考えを廻らせてはや数十分。私はその姿に釘づけになっていたとき、彼女は突然踵を返して、こちらに近寄ってくる。
「あの」
その迫力に気おされながら、私は「はい」と返事をする。
「みさきちさんはどちらにいらっしゃいますでしょうか」
“みさきち”とは私の名前である。本名の“みさき”をモジってSNSで使っていたのだが、あるとき、プチバズりを見せ、それ以来、みさきちという名前が浸透してしまったため、変えどきを逸して今に至る。
「わ、私ですけど」と返す。
「あの、いつもSNSで拝見してます!」
「ありがとうございます」
「今回の個展、すごく待ち遠しくて、その、おめでとうございます。心より御祝い申し上げます」
興奮を抑えつつ、行儀よく御祝いの言葉を口にする姿に大人を感じた。いや、こんなに興奮するおとなを見るのも久しぶりなのだけれど。
「そんな、ご丁寧に、どうもありがとうございます。あの、今日はどちらから…」
「今回のテーマ。『イキ』ってとってもみさきちさんらしいです!」
私の言葉を遮り、彼女はしゃべりだした。
「“イキ”って敢えてカタカナで表記しているのって、そこからいろんな連想をさせるためですよね。ブレスの“息”とか、領域の“域”とか、行き帰りの“行き”とか。あとは、心意気の“意気”とか、それが作品ごとにひとつずつ込められていて、作品が生きているようで、あ、生きるの“生き”というのもあるんですね!すごいです!」
すごい。こんなにもたくさん考えてくれるだなんて。感心している私に彼女は言葉を続ける。
「あ、すみません、こんな風に口にするのって、ぜんぜん粋じゃないですよね」
「いえ、とってもイキイキお話くださって、嬉しいです。私の作品からそんなにも読み取ってくださって」
「生で見るのはじめてだったのですが、SNSとは迫力が違いますね!あ、もちろん、SNSで拝見するのもとっても素晴らしいのですが!」
「ふふ、ありがとうございます。それで、さきほどまでずっと見ていただいてたと思うのですが、あちらの作品、気に入ってくださいましたか?」
「はい、それはもう吸い込まれそうで。あの、あちら、いただけますでしょうか?」
「え…」私は驚きのあまり声を詰まらせた。
彼女が見ていた作品のタイトルは『小粋』。今回の個展のなかで最も難産で、最後の最後まで悩んでつくりあげた。展示している作品の中でも大掛かりで、もっとも高価な値、30万円をつけているので、最後まで残るだろうし、まさか売れるとは思っていなかったのだ。
「いいんですか!?ありがとうございます、ぜひ。では、こちらへ、」
「あ、でも」
初日にこんなことがあるなんて。心弾ませながら、商談をはじめようとするが、彼女は言葉を遮る。
「あの、25万になりますか?」
彼女からの予想だにしない言葉に私は再び言葉を失った。
「札には30万と書いてありましたので、定価は30万円なのだと思うのですが、25万にしていただけると助かります」
私としては、最初、15万円にしようと思ったのだが、ギャラリーのオーナーに止められ、相談のうえ、今の値段になったのだ。
だから、25万でもありがたいのだが、まさか、値切られるとは思っていなかったので、なんとも言えない気持ちになった。
「とても気に入ったので、ぜひ我が家に飾らせていただきたいのです」
戸惑う私にかまうことなく、彼女は言葉を続ける。
「ダメでしょうか?」
ダメなのだろうか。はじめての個展ではじめての出来事、私の頭の中はパニックである。25万でも充分にありがたいのだ。
「えー、っとですね、」まとまらない思考のまま、言葉を探す私。
「では、24万でどうでしょうか?」
なぜ下がる!?こういうときって、上がるのもなのではないのだろうか?こういう交渉もあるのか?助けを呼ぼうとギャラリーを見渡すが、オーナーは見当たらない。
「ダメですか?では、23万で」
また下がった。
「思い切って20万でどうでしょう!」
ダメだ、このままだと下がる一方だ。どこかで止めなければ。
「あの、ちょっと待ってください」
「ムリです、私の想いはもう止められません!」
あなたにムリだったらもう私にもムリです。誰か助けて。
「では、いくらでしたら納得していただけるでしょうか?」
その言葉に私ははっとした。
私はなにを納得していないのだろうか。
もともとは15万円で売ろうと思っていたのだ。私がこの作品につけた値は15万円。
それ以上を求めるのであれば、買い手が納得していないのに売りつけるのは無粋だ。そう、今回のタイトルは『イキ』。これもまた個展の作品のひとつとして、粋に応対しようじゃないか。
「15万、15万円でおゆずりさせてください」決意を込めて私は告げる。
「え、いいんですか?」
彼女は若干引いている。解せぬ。
「はい。もともと私、この作品は15万円だと思ったんです。それが私の思う価値ですから。それ以上いただくわけにはいきません」
「わかりました。では、15万円でいただきます」
そのままオーナーのもとへ連れていき、会計を進める。オーナーは心配そうにこちらを見ているが、お客様の手前、何も言ってこない。
彼女は一度、お手洗いに立ち、その間に、精算を終える。
「ありがとうございました」戻ってきた彼女に私は清々しい顔で告げる。きっと清々しい顔をしている、はずだ。
「こちらこそ、ありがとうございます。受け取る日を楽しみにしております。では、こちら、御祝いです。お納めください」
そこにはご祝儀袋が。あっけにとられている間に、彼女はギャラリーをあとにした。
袋を確かめてみると、そこには15万円が包まれていた。値切った価格と同じ15万円。ご祝儀にと彼女は言った。
「“イキ”だなあ」私はつぶやかずにはいられなかった。