【小説】待ち人来たらず
夕暮れどき。渋滞で進まない車たちを見下ろしながら、紙カップに入った珈琲をすする。
いつもの待ち合わせ場所。四車線の道路に架かった歩道橋の真ん中。通り過ぎる人波に背を向け、日が沈むのをぼうっと見つめている。
オフィス街のビルに囲まれたこの歩道橋は、それでもその隙間から光が差しこみ、垣間見える空と、それに溶け込むように佇むビルはオレンジ色に染まっている。
視線の先には、この街の中心であるターミナル駅が見える。そこに向かって帰宅するもの、そこから街へ繰り出すもの、両者入り乱れて、賑々しい街を彩る。止まった車を追い越し、忙しなく往来する人々も、この街に色をつける絵具のようなものだ。
いろんな色の人生があるのだろう。幸せいっぱいの人もいれば、悲しみにあふれた人もいる。怒りに満ちた人もいれば、穏やかに過ごす人もいて。誰もが日々、色を変えながら、生きている。
僕も、彼女も。
彼女は遅刻魔で。30分遅れてくることなんてザラにあって。おっとりしている、といえば、聞こえは良いが、とにかくマイペースで、しかも方向音痴。一人じゃまともに目的地にたどり着けない。でも、なぜだか自信満々で歩みを進め、到着までの時間を延ばしていく。
ここにだって、何度も失敗を繰り返し、ようやくたどり着けるようになったのだ。ただし、時間通りに辿りつけたことはまだない。
彼女を待つ間、僕はいつも街を観察していた。
この横断歩道の上からは、360°世界が見渡せる。日によって、時間によって、まったく違う顔を見せるのがおもしろい。
たとえば。今、サラリーマンがタクシーを止めようと必死に手をあげている。タクシーは彼に向かってきてはいる。が、その手前で、今まさにそのタクシーを止め、人が乗り込んでいった。サラリーマンは怒りを露わにして、電話を取りだし、喋りだしたかと思うと、ペコペコと何度も頭を下げる。
人を待たせているのだろうか。この時間だから、会食に向かうところなのかもしれない。大事な得意先を待たせているのかも。
電話を切ると、乱れた頭髪を手櫛で直し、人波をかき分けて走り去っていく。彼のこれからに幸があらんことを祈るばかりだ。
他方、必死な顔をしてティッシュ配りをする若者。新人なのか、ティッシュを差し出す頃には目的の人物は通り過ぎている。人が良いのだろう、深々と頭を下げるせいでそれに気づかず、伸ばした手が通行人に当たり、ペコペコと頭を下げている。
今日は人が頭を下げる記念日なのだろうか。
そのうちに同僚が現れ、何かを指導している。うんうん、と何度も首を振り、真剣に話を聞く。それを終えると、再びティッシュ配りが再開される。
今度は笑顔で声をかけ始める。パラパラと受け取るものが出始めた。笑顔一つでこうも変わるものなのか。彼女のこれからに幸があらんことを。
背中の方から遠く、救急車のサイレンがこだましてくる。信号が変わり、動き始めていた車が少しずつ、中央を空け、再び動きと止めていく。今から現場へ向かうのだろうか。それとも、病院へ向かうところなのだろうか。
救急車の音が聞こえたからか、なぜだろう、止まる必要のない歩道の人まで歩みを止めている。そんな中、歩みを進める人は目立って見える。
ゆっくりと近づく音が真下までたどり着き、音を変えて通り過ぎていく。
途端に人も車も何事もなかったかのように動き出し、すぐに日常を取り戻す。救急車が向かう先では波が押し寄せるように同じ光景が見られるのだろう。赤と白の車体が見えなくなるまで見送りながら、はじめてこの場所で待ち合わせしたときの事を思い出す。
ここが待ち合わせ場所になったのは、偏に僕の家に近かったからだ。仕事終わりに待ち合わせして、ふたりで帰り、ふたりで食事を取る。
偏食家の彼女は、外食を好まない。ワインを好み、赤身の肉を好む。野菜は食べないので、付け合わせはなく、味気ない見た目になるが、そんな事にかまう様子もなく、食べ進める。
「見た目にはこだわらないの」という彼女は、宝飾品などは身に着けないが、それでも、品のある服を身にまとい、髪は艶やかで、派手すぎないメイクを施し、小綺麗にしている。こだわりはしないが、気にしないわけでもない。お嬢様育ちの彼女のふつうの基準は僕に比べて高いところにある。
ほどなくして。まだ皿に半分ほど肉が残っているうちに、彼女は手を合わせる。そして、こちらに皿を寄こしてくる。僕はそれをじぶんの皿に移す。いつものことなので、一度、聞いてみたことがある。量を減らしてつくろうか、と。すると、彼女はワイングラスを傾けこたえた。
「つくる量を減らしたら、食べる量も減っちゃうじゃない」
どういう理屈かは知らないが、そういうことらしい。中国の饗庭料理では、食べきらず、残すのがマナーだと聞いたことがある。食べきってしまうと、足りなかった、と取られるのだとか。育ちが良さからすると、もしかしたら、彼女の家ではそんな風習があるのかもしれない。
彼女がグラスから赤い液体を飲み進めていくなか、僕は茶碗を片手に白い個体を口に運ぶ。マイペースな彼女はムリに酒を進めてこない。それがとっても居心地が良い。
一度、ふたりの記念日にいっしょにワインを飲んだことがある。一杯を飲み切ったところで、僕が夢の世界へと旅立ってしまい、現実に戻ってきた頃には記念日は終わっていた。珍しく彼女はご立腹で、僕はひたすらに頭を下げた。
なぜ怒っているのかわかるか、と問われ、せっかくの記念日に寝てしまったからだ、と答えると彼女は眉を下げて言った。
「私のためにムリしないで」
それから、僕らの間で暗黙のルールができた。
相手のためにムリをしないこと。
ムリに相手に合わせない。じぶんがしたいと思ったことで相手を喜ばすこと。嬉しいことは喜んで、嫌なことははっきり断る。
人目を気にして生きてきた僕にとってそれは難しいルールだった。人に合わせて、和を乱さないように、流れに逆らわないように、無難な人生を歩んできた。その生き方を変えるのはなかなかに難しい。だが、彼女との日々を穏やかに過ごすために、努力しよう、そう心に誓った。
そんなある日、またもや彼女に指摘されてしまった。
「だから、ムリしないでって言ってるじゃん」
なんのことだかわからず、ポカンと口を開けている僕に、彼女が優しく諭してきた。
僕が人に気を遣うのは僕の性分なのだから、ムリにそれを変える必要はないのだと。気を遣いたければ遣う。それでよいと。
それではムリしないのはムリではないか、納得のいかない顔を見せた僕に彼女は言葉を続けた。
「じぶんを犠牲にしてひとに幸せを届けたって、貰ったほうは嬉しくないのよ?」
わかったようなわからないような。それ以上何も言わず、彼女はいつものようにワインを口にした。
日は沈んだが、まだ空は明るさの余韻が残っている。
来ない待ち人を待って、彼女は今日もそこに佇む。
大丈夫かい?ムリはしてないかい?
あの時の言葉、今まさに痛感しているよ。君にムリをされても僕はちっとも嬉しくない。だから、いつか君が、この悲しみを乗り越えて、また幸せな日常を取り戻せますように。
僕は君のこれからに幸があらんことを祈ってる。
街には街灯や看板のネオンが灯り、少しずつ夜の顔になっていく。街の明かりが彼女を照らす。