【小説】夕焼け小焼け
「ゆーやけー、こーやーけーでー、ひーがーくーれーてー」
西日が強く差し込み、文字を打つ手元を照らしている。ふと外を眺めると空がオレンジ色に染まり、青が隅に置いやられていた。
通りすがりにこの春に入社したばかりの女性社員が口ずさんだ歌。
「久しぶりに聴いた」
「なにが?」
「いまの」
先輩に尋ねられ、帰り支度を進めていた手を止めて答える。
夕焼け小焼け。地元では夕方になると、このメロディが響く。幼い頃から刷り込まれたこれを聴くと“ああ、家に帰らなければ”と思わされるのだ。
「それはあれだな、田舎だからだな」
この人はすぐ人を田舎者扱いする。実際、田舎者だから反論の余地もない。
週末。
世間では大型連休。行楽の秋を楽しむ家族連れたちを横目に電車に揺られ、一人、また一人と目的へ足を踏み出し、気づけば車内はまばらになっていた。
終点までたどり着くと、僕は重い腰をあげ、ホームへ降り立つ。
久しぶりのふるさと。
この匂い、変わらない。いや、この匂いがふるさとの匂いだと気づいたのは、この街を出てからだ。住んでいるときには気づかない、当たり前のもの。
変わらないものがあれば、変わるものもある。
改札を抜けると、きれいに舗装されたロータリーと、大きな建物が目に飛び込んでくる。最近、建てられた市の施設らしい。はじめて目にするが、とても都会的で、周囲から浮いてみえる。
昔は、言葉通り、何もないサビれた駅。そんな姿に見慣れていたが、今では、まったく見慣れなくなってしまった景色を見回していると、背中から声をかけられた。
「ナオ?」
振り返ると、スーツ姿の男がこちらに近寄ってきた。
恰幅はよくなっているが、昔から変わらない髪型と愛嬌のあるその顔で誰だかすぐわかった。
「あっくん」
小学校からの同級生で、高校まで一緒だった。
「珍しいなあ、どうゆう風の吹き回し?」
ひどい言い草。久しぶり、ではなく、珍しい。まあ、それも仕方ない。なにせ、大学に出て以来、一度も帰省していないのだ。
「たまには帰ってこいよ。って、今帰ってきたか。せっかくだし、飯行くか?」
「いま?」
「いま」
昔から、衝動的な男なのだ。
「あ、このあとちょっと」
「まあ、そうだよな。いつまでいるの?」
「明日帰る」
「せっかちだなあ」
仕方ないだろう。お前のように、衝動的に来てしまっただけなのだから。
「仕事あるし」
「今、東京だっけ?」
「うん」
正確に言えば横浜なのだが、この辺りの人も名古屋出身だと嘯くのだし、まあ、誤差の範囲だと思って頷く。
「変わったね」
「ん?」
「駅」
「ああ、そうか。まあ、あの頃とは別世界かもな」
「んん」
「そんなこと言ったら高校の周りのほうが変わったぞ」
田舎なんて変わらないものだと思ってた。
「あっくんは、今日も仕事?」
「ああ、休日出勤。ちなみに、おれ、名古屋で働いてるんだけど、けっこう東京出張もあるから、今度飲みに行こうぜ」
横浜だと訂正した方がいいのかもしれない。
「で、帰らないの?」
「んん、待ち合わせしてて」
「じゃ、おれ帰るわ、今度行くとき連絡する、じゃあな」
「んん、バイバイ」
そう言ってあの日も別れた。卒業式のあと、みんなでご飯に行って、またね、バイバイって。あれから何年経っただろう。確かに、また会った。帰ってきた。でも、当時の僕は、本気でこの田舎を捨てる気でいた。
二度と帰らないつもりで大学に進み、バイトが忙しい、サークルが忙しいと理由をつけては、帰省するのを拒んでいた。成人式にも参加していない。
何がそこまでそうさせたのか、今となってはわからない。これも若気の至り、というやつなのだろうか。だからと言って、後悔はしていない。
「何考えてんの?」
声のするほうへ振り返る。
「しばらく前からいるんですけど」
「あ、ごめん」
夕日が差して、オレンジ色に染まった長い髪が、優しくなびく。
「暗くなるの早いね。さっき、夕焼け小焼け、鳴ったばかりなのに」
きっと変わっているんだろうけど、変わらない、そう感じた。
僕たちは堤防沿いを歩いていた。昔はよく、学校帰りに自転車で走った記憶がある。寄り道をして、暗くなっても、橋の下で語り合って。
「まだ鳴ってるんだね」
「え?」
「夕焼け小焼け」
「なるでしょ、夕方なんだから」
訝し気にこちらを見る顔は夕日に照らされて少し眩しそうだ。
「ここってこんなにキレイだった?」
堤防沿いは整備され、遊歩道や広場が続いている。街灯が灯り、すでに人気がなくなっていた。
「いっしょに来てたときには、すでに」
「そうだっけ」
「相変わらず、忘れっぽいね」
「覚えてる?」
立ち止まった彼女は、照り返す水面を眺めながら言葉を続けた。
「十年後も一緒にここ歩いていようね、って言ったんだよ、ナオ」
「そうだっけ」
「嘘、じゃなくなったね」
「まあ、ある意味」
「嘘つきのくせに」
彼女の言葉には棘がある。昔から。
「そんなつもりじゃあ」
「守れなかったら一緒なの」
「それは、まあ、そうだけど」
「ふふ、変わってない」
「ごめん」
「そうやってすぐ謝るところも」
「ごめん」
「本題をなかなか喋らないところも」
呼び出したものの、なかなか切り出せないでいた僕に、呆れたように手を差し伸べる彼女。
昔からそうだ。言い出せないまま、そのままにしてきた。
「その、メッセージの件だけど」
「うん」
「ごめん」
「謝らないで」
「ごめん」
昨日の夕方、彼女からメッセージが届いた。お互い、連絡先が変わっていたのだが、SNSの友人を伝って、見つけたのだという。
「別れよう、とも、別れたい、とも言わなかったもんね」
「でも、そのあと、何もなかったし」
「困ると逃げるのも変わってないのかな」
「はは」
「笑ってごまかすのも」
何かが変わると思って田舎を飛び出して、変わったつもりで生きてきて、でも、どうやら僕はまだ、あの頃に取り残されているみたいだ。
“別れるか、結婚するか、どちらがよいですか?”
彼女から届いたメッセージは、簡潔にそう尋ねてきた。
「なんで、今?」
「はあ」
ため息が白く広がり、空気に溶けた。
「お前はそんなこともわからないのか」
「え?」
「お前はそんなこともわからないのか」
透き通った目で、見透かすようにこちらを見つめてくる。
そうだ。優柔不断な僕を叱咤するこの瞳。
わかっているのだ、わかっていながら、結論を先延ばしして逃げようとして。傷つくのを恐れて、傷つけることを恐れて。そのたびに彼女は僕を問い詰めた。
「はは。変わってないんだな」
「なにが?」
今度は素直に首をかしげる。
「おれが」
笑顔で返してくる彼女。
「別れよう。今さら、だけど」
「いいのね?」
「よくない、って言ったら?」
噴き出して笑いだす彼女。
困った顔をしていると、僕を追い抜かしていく。
「ごめんごめん、ホント、変わってないんだもん。わざわざこんなところまで来て」
振り向かずに言葉を続ける。
「ごめんね、いじわるしちゃった」
変わらないように見えた彼女の背中は、確実に大人びていて、あの頃に感じた若々しい元気さから、落ち着いた力強さを感じさせた。
「モヤモヤしてたの、私のせいじゃないかなって」
「何が」
「ナオが帰ってこないのが。帰ってこられないのが」
「やっぱり、変わってない」
「誰が?」
「僕も君も」
「も?」
「この町も」
「おかえり」
「ただいま」
ふたりの影は長く長く、堤防に向かって伸びていた。