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【小説】(タイトル未定)

 今思うと、それすらも夢だったのではないか、と思うような、不思議な体験をした。

 気付いたら夕方で、いっしょに遊んでいた友達と慌ててランドセルを背負って帰路に就く、そんな小学生の頃の帰り道。いつも通りの通学路を歩いていたはずなのに、いつの間にか、知らない古いビルの前にいた。

 ―こんなところにビルなんてあっただろうか。

 壁はところどころに剥がれ落ち、掠れた文字でかろうじて読めるのはシネマの文字。おそらく映画館なのであろう。掲示板に貼られたポスターはどれも日焼けしていて内容は読み取れない。半分開いた入口の扉から覗くのは薄暗い廊下で、営業しているとは思えない。

 不気味なその様に慄いていた私とは違い、友達は吸い込まれるように映画館に入っていった。

 私は、取り残されることに恐怖を感じ、後を追うのであった。


 こんな書き出しで始まる物語を今から書こうと思っている。

 タイトルは未定だ。

 タイトルを先につけるか、後につけるか、それは人それぞれだろうし、人によってはときどきで異なるだろう。

 私はといえば、タイトルを先につけて書き出すことが多い。

 書店で本を買おうとするとき、ポップやあらすじを気にすることなく、タイトルとにらめっこして、ピンときたものを手に取る。

 たいがいそれで間違いがない。

 中にはタイトル詐欺の作品もあるが、その感性は馬鹿にできない。

 それほど、物語りにとってタイトルとは大切なものなのだ。

 私の場合、タイトルをつけることは、プロットを書き上げることに等しい、と言っても過言ではないほど、重要な要素を占める。

 書いている途中に、別のタイトル案が浮かび、浮気心を見せることもあるが、最終的には最初に浮かんだタイトルに戻ってくる。

 むしろ、タイトルに物語が寄せていっている節だってある。

 書くときだけじゃない。読むときだって、それこそ、本以外にも、ドラマや映画、あらゆる物語はタイトルが物を言っている。

 だけど、不思議なのが、魅力的なタイトルというのは、かくれんぼもうまい。物語の内容や、登場人物、ところどころの場面は思い出せるのに、タイトルだけ迷子になってしまうこともある。

 どれだけおもしろいと思ったタイトルでも、ど忘れしてしまうことだってある。今だってそうだ。あのとき見たタイトルが思い出せないでいる。


 明かりはついているのに暗い廊下を進むと、分厚い扉がある。

 今でこそ、映画館といえばシネマコンプレックスのイメージが定着したが、私がこどもの頃には、まだ街には単館がいくつかあって、そこはタバコ臭くて、大人たちばかりがいる、子どもには入りづらいような場所だった記憶がある。

 だからこそ、子どもにとっては秘密の花園のような存在で、未だ知らぬその場所に想いを馳せ、ドキドキしたものである。

 重い扉を開けると、壁一面に貼られたスクリーンが目に入る。

 今にして思えば、大したものではなかったのだろうが、子どもにとってはとてつもなく大きくて、その存在感に圧倒された。

 中に入り、扉が閉まると、スクリーンに光が投影される。

 そして、映像が案内を告げる。
―劇場内での夢の撮影・録音は犯罪です。 法律により10年以下の懲役、もしくは1000万円以下の罰金、 またはその両方が科せられます。 不審な行為を見かけたら劇場スタッフまでお知らせください。 NO MORE 夢泥棒!

 映写機の顔をしたおかしな人物が不審な行為を犯して、捕まっている様子を流していたおかしな内容。

 夢泥棒とは?

 私がそんなふうに思っていると、本編が始まった。


 そこはずっと行きたいと思っていた憧れの遊園地。人気の遊園地だけあって、大勢の人で賑わっていた。どのアトラクションも行列ができており、乗るのは小一時間かかりそうだ。

 そんな中、ジェットコースターの行列で、一人の男の子が人波をかき分けて、先へ向かって進んでいく。その様子を誰も気にすることもなく、ニコニコ微笑んでいて、男の子はついに先頭までたどり着いた。

 今まさにアトラクションに乗ろうとしていた同じくらいの年の女の子を突き飛ばして、男の子が乗り込む。

 女の子はアトラクションの隙間に落下していったが、誰も助けようとする気配はない。それどころか、気付いた様子もなく、談笑している。

 そうこうしていると、男の子が乗ったジェットコースターが出発した。一人だけしか乗っていないそれは物理法則を無視して、信じられない軌道を描いて、凄まじい速度で突き進む。

 男の子はその上に立って、手を挙げてはしゃいでいた。逆さまになっても落ちることなく笑顔で声を上げる男の子が私の前を通り過ぎた瞬間、男の子は静止した。

 そして、笑顔を絶やすことなく、こちらをじっと見つめていた。その顔はまぎれもない、私だった。


 “夢の映画館”というタイトルはどうか。安直すぎるだろうか。

 この物語は、主人公がそれまでに見た夢がリバイバル上映される映画館が舞台になる。

 夢というものは覚えていることは稀で、起きたての頃は忘れないように記憶に刻み込もうとするが、コップ一杯水を呑む間に消えてしまう。夢日記をつけたとしても、夢ではあんなに楽しかった物語が、読み返すと、わけのわからないつまらないものに様変わりしてしまう。

 そんな夢が、そのままもう一度見られたら。

 そして、これまでに見てきたすべての夢がライブラリ化できたら。

 そんなことを考えているうちに、物語のプロットが固まっていった。

 カップを手に取り、一口。コーヒーは冷めきっていた。私は新しいコーヒーを入れなおしに席を立つ。

 普段、タイトルに固執する私が、今回は未だ、タイトルを決められずにいた。たいがいはプロットを書き上げたときには決まっているし、そうでなくても、書きだしていくうちに、固まっていくものだ。

 人によっては、意味のない仮タイトルをつけるようだが、私はその仮タイトルにすら意識がいってしまうため、そのようなことは控えている。

 “夢の映画館”は、わかりやすいが、どうにも的を射てない気がする。発想としては間違いないのだが、この物語は、夢の映画館があったとして、それが私たちにどのような価値があるか、ということを考えることに意味がある。

 夢だけじゃなくて、記憶だって、私たちは永遠に留めておくことはできない。しかし、忘れる、というのは、人が進化する中で得た能力である、とも言える。嫌なこと、辛いことを忘れることができるから、心を保ち、健やかに生きていくことができるのだ。

 私はドリップしたコーヒーが一滴ずつ落ちるのを眺め、そんなことを考えていた。


 気付いたら夕方で、いっしょに遊んでいた友達と慌ててランドセルを背負って帰路に就く、そんな小学生の頃の帰り道。いつも通りの通学路を歩いていたはずなのに、いつの間にか、知らない古いビルの前にいた。

 これはさっきの出来事ではないか。私は今、何を見ているのだろうか。何を見ている…。そう、私は見ているのだ、その様子を。私は映画館の椅子に腰かけ、見ている。しかし、私は身体を動かせない。

 私が動かせるのは、スクリーンの中の私の身体だ。

 私は友達がビルに入っていくのを止めようと手を伸ばし、彼の手を掴んだ。確かに掴んだはずなのに、手はどんどん伸びていって、友達は映画館の中に入っていってしまう。

 伸びた手に恐怖を感じ震えるが、手放してしまうと友達がいなくなってしまうんじゃないか、そんな恐怖が上まわり、離すこともできずにいた。友達はどんどん先へ進んでしまう。

 何もできずただ立ちすくむ私の手を、友達の手がギュッと握りしめる。その瞬間、私は暗闇の中に飛び込んだ。


 “夢のまた夢”というタイトルはどうか。

 夢の中で見る夢のような、なにが現実でなにが夢かわからない世界で葛藤しながらも、友人を、そして自身を取り戻していく様を描いた物語だ。それにしては、古風すぎるだろうか。

 この物語の本質は、喪失の肯定、である。失うことを恐れず、認め、折り合いをつけて生きていくことが大人になる、ということなのかもしれない。

 となると、タイトルは“喪失の肯定”でよいではないか。

 少々固すぎる気がする。

 悪くはないが、やはり、しっくりこない。

 考えを巡らせていた私は気づいたら机に突っ伏していた。

 今思うと、それすらも夢だったのではないか、と思うような、不思議な体験をした。


 こんな物語を書いたのだが、タイトルはまだない。

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