【小説】僕、体調悪くならないので
“3月はライオンのようにやってきて、子羊のように去っていく”とはイギリスのことわざらしいが、それは日本でも通用するようだ。肌を刺すような寒さは感じられなくなり、日照りに暑苦しさすら感じるものの、一度風が吹けば、それはライオンの叫び声のような音とともに激しく吹き荒び、途端に冬を思い出させられる。
こんなことわざ、一介の中学生が知っているはずもなく、とある将棋漫画の受け売りである。
将棋を熱心に指すわけではないが、漫画を読み進めるほどに、サッカーとの共通点を感じる。
それぞれの駒に役割があり、ポジショニングが大切な点だとか、戦術によって攻め方や守り方が変わってくる点だとか。一手で局面を変えうる可能性があることだとか。
視界の先には、ボールを蹴るこどもと、それを追いかけまわす犬、そこに声援を送る父親がいる。こどもは器用にボールをキープし、犬は、ボールを奪おうと子どもの周りを駆けまわっている。
そこに砂埃が巻きあがり、彼らに襲い掛かった。こどもたちは奇声をあげて逃げようとするが、それは一瞬の間に通り過ぎ、彼らはまた、何事もなかったかのようにボールを蹴りだした。
先週、ネットニュースで春一番が吹いた、と言っていた。でも、一向に春二番も春三番もやってきたという記事を目にすることはない。そう、結局、一番だけなのだ。一番にならないと話題にものぼらない。
「あなた、顔色悪いけど大丈夫?」若々しい老婆(老婆なのに若々しいというのもなんだが)がこちらを覗き込み、そう言った。
「あ、はい」訝し気にそう返す。
「これ、飲む?まだ封を開けてないから」
「いえ、結構です」
「そう。ここに置いておくから、もしよかったら飲んでね」
ベンチにペットボトルのお茶を置いて、老婆は遊具に向かっていった。そこで遊ぶこどもの保護者なのだろうか。それにしても、いったいどういうつもりなのだろうか。このご時世に知らない人に声をかけるだなんて。知らない人から物なんて貰うわけないだろうに。
でも。声援はかけられればかけられるほどに熱くなる。それが例え知らない人からだとしてもだ。今日の試合も…。
思い出して苦虫を嚙みつぶしたような顔になる。
今日は他校との練習試合だった。
不動のレギュラーとして、チームを支えるポジションを担っている。自分で言うのもなんだが仲間からも監督からも信頼は篤く、プレーはもちろん、精神的な支柱にもなっている。だから、辛い顔など見せてはならない。ミスなど許されないのだ。
それなのに。相手のエースを抑えることができなかった。裏をかかれ、一度ならず二度までもやられてしまった。チームメイトは口々に「ドンマイ」と投げかけ、「あいつはとめられないよ」と慰めの言葉をかけてくる。監督は「お前はよくやった」と心にもない賞賛を送る。
確かに、相手は県の代表に選ばれるような選手である。でも、そんなふうに端から無理だと思って臨んでは、勝てるものも勝てないだろうに。
足元にボールが転がってくる。顔を上げるとこどもがこちらに向かって手を振っている。蹴り返そうとすると、犬がこちらに駆け寄ってきている。どうするべきか。
「お前、顔色悪いぞ?」
どうしようかと迷っているとどこからか声がする。当たりを見渡すが誰もいない。
「ここだ、ここ」
声のする方へ顔を下げると、犬がこちらを見つめている。
「なんだ、お前、ババアの茶、飲んでねえのか」
確かに、犬の口から発せられた言葉に言葉を失う。
「あったかいうちに飲まなきゃババアが浮かばれねえぜ」
「い、犬が、喋った」
「おかしなやつだな。ひとまず、坊主。その球、あのガキンチョに蹴り返してやってくれ」
犬に促され、いまだに手を振り声を上げ続けるこどもに、ボールを蹴り返した。ボールはまっすぐこどもに向かって転がっていく。勢いが強すぎたのか、こどもはボールを受け止めることができず、後ろへ逸らしてしまい、慌ててボールを追いかけていった。
犬はといえば、ボールはもうここにはないのにそのままじっと伏せっている。
「あの、行かなくていいんですか?」
「あ?いいだろ、ずっと相手してやってたんだし。休憩だ、休憩」
親子を見るが、こちらを気にする様子はない。
「お前も休憩したら」
「いや、今、休んでたけど」
「休んでるのになに体調悪くしてんの」
「いや、体調は悪くない」
「はあん。で、茶は?」
「えっと」
置かれたペットボトルを一瞥し、目を泳がせる。
「ははあん。怪しんでんだな?なにを疑ってんだ?毒か?薬か?」
「いや、そもそも知らない人から物もらったら恐いだろ?」
「知ってる人なら安心なのか?」
「そりゃそうだろ」
「知ってるからって、毒や薬を入れないって言い切れるのか?」
「それは、えっと」
「そこの、水道の水でもいいから飲んでみろよ、楽になるぞ」
「はあ」
ベンチの横に設置された水飲み用の水道を眺める。いつの間にか水道の影が長く伸びていた。
「疑り深いやつだな」
疑うに決まってる。犬が喋っているのだ。これは犬がおかしいのか、自身がおかしいのか。思考を巡らせようとするが眩暈がして、そのままベンチへ腰掛ける。
「そうだな。今のお前にはベンチがお似合いだ。おとなしく座ってろ」
ベンチがお似合い、だと。違う、決して控えなんかじゃない。
「ベンチから見える景色はどんなだ?」
交代を告げられてピッチを去るときの屈辱は忘れられない。ベンチで試合を見ることなく、俯いたままで。試合終了のホイッスルがいつ鳴ったのかわからないまま、ベンチに座っている。
「いつから体調悪いんだ?」
体調なんて悪くない。コンディション管理を怠ったことはないし、病気や怪我で医者に掛かったこともない。
「僕、体調悪くならないので」
「負け犬の遠吠えか?」
その言葉に思わず犬を睨みつける。
「じぶんでもわかってるようだな。重畳々々」
「犬のくせに」
「犬だからこそ、だよ。犬も歩けば棒に当たる、って言ってな。歩いていれば棒に当たることだってある。それが当たりの棒か、外れの棒か、そりゃあ当たってみないとわからんけどな」
犬のくせに偉そうによく吠える。
「そうだ、犬のくせにだ、強がったってライオンにもなれないし、いい顔したって羊にもなれない。鬣を生やそうと羊毛を身に纏おうと犬は犬だ。犬が西向きゃ尾は東。当然だ。じゃあ、お前はなんだ?お前は誰だ?」
なんだ。なんなんだ。なんでこんなところで犬に説教されているのだ。
「お前は犬か?」
「違う」僕は僕だ。
「お前は犬だな。犬は自分のこと、見えないからな」
「違う」
「違うか、見えているのに、見て見ぬふりしているのだ」
「違う」
「違うのか」
「違う」
「そうか」
「違うな」
気づけば、僕の影は地面に四つ足で立っていた。
「おーい、花子」
遠くから呼ぶ声がする。
「ワオーン」
近くから遠吠えがする。
「お前、女の子だったのか」
「だったら?」
「いや」
「じゃあな」
犬が親子のもとへ駆けていく。
日は傾き、公園の半分を影が覆っていた。
ベンチに置かれたペットボトルを手に取り、キャップをひねり、口をつける。まだ温かさが残っていた。一口、二口、飲み込む。目を閉じて、すぅっと一息。水分が体中、駆け巡るのを感じる。
目を開けると誰もいなくなっていた。
そよ風が吹き抜け、木々が揺らぎ、さらさら音を立てている。
空には、季節外れの羊雲が赤く染まっていた。