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【小説】魔女と間男と私

「気にくわないねえ」

 そう言って、魔女は持っていたステッキを振り下ろす。

 それ以来、私は愛する人と結ばれることはなくなった。


 はじめは私が好意を寄せた人に愛されないだけだと思っていた。良い関係になり、告白をしても振られてしまう。それが何度も重なってようやく、私は魔女の呪いだと気づいた。

 それならば。私は私に好意を寄せる人と付き合うようになった。しかし、付き合ううちに私の気持ちが大きくなり、それが相手と同じか、上回るようになると、男から離れていってしまう。

 愚かにも恋をして、愛してしまうのだ。何度でも。何度でも。

 指折りで数えられなくなった頃、私は諦めた。

 愛だ恋だと言わないで、現実を見ることにした。

 好きになるような男と付き合わなければいい。

 私を愛するような人を求めなければいい。

 それが私にふさわしい人なのだ。


「ねえ、あれ食べたい」

 男は脱いだシャツを羽織ることなく、後ろから抱きついてくる。

 華奢な身体、腕をいっぱいに伸ばして包み込みながら、甘えてくる男、マオ。

 私はマオの頭を撫で、大切なものも守れなさそうな頼りない腕を下ろし、キッチンへ向かう。

「ありがとう、大好き」

 マオは私を愛していない。

 好きなくとも私にはわかる。

 しかし、私にとっては居心地がよく、ちょうどよいのだ。

 失恋の末、自暴自棄に陥った私のそばにいてくれた。マオには愛する人がいて、いつもいっしょにいてくれるわけではない。

 でも、いっしょにいてくれるときだけは、嘘でも優しくしてくれる。

 心の寂しさを埋めてくれる。

 だから、お互い様なのだ。

 私も彼を愛してはいない。

 だから、ちょうどよいのだ。

「どうしたの?」

 彼は心配そうに首を傾げる。

 私は鍋に水を入れ火をかける。


「ペペロンチーノってどんな意味か、知ってる?」

 私がはじめて同棲した彼は得意げにこう言ってきた。

「えー、わかんない」

 スパゲッティを茹でているあいだ、ニンニクを薄く刻み、フライパンに入れ、そこにオリーブオイルと赤唐辛子を入れて、炒めていく。

「イタリア語で唐辛子って意味なんだ」

 ニンニクがキツネ色に近づいてきたら、火を止めて、キッチンペーパーのうえに取り出す。

「几帳面だよね。前の彼女なんて、そのまま麺入れてたよ」

 良くも悪くも正直者の彼は、今カノの前で元カノの話をしても、悪びれることがないくらいにはデリカシーがない。

「そもそも、ペペロンチーノって、正式じゃなくてさ」

 私は水や塩の分量だってきっちり規定量でつくるし、茹で時間だってタイマーで計る。時を告げたタイマーを黙らせ、スパゲッティを一本取り、食べてみる。しっかりアルデンテに仕上がった。

「ホントは、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ、っていうんだ」

 麺をざるに取り出し、さきほどニンニクと唐辛子を取り出したオイルへ投入する。軽く絡めたあと、残しておいた茹で汁を加え、ソースを絡ませる。

「アーリオはガーリック、オーリオはオイル、つまり、ニンニクとオイルと唐辛子のパスタってこと」

 母はよくペペロンチーノをつくってくれた。それが格別で、一人暮らしをはじめてから、何度か真似してみたのだが、うまくできず、なんとも油っぽく、味の薄いペペロンチーノができあがってしまった。

 母にコツを尋ね、試行錯誤した結果、うまくできるようになった。

 それから、付き合った男に最初に振るまうのはペペロンチーノが定番となった。もちろん、男たちにそのことを告げたことはない。

 私は仕上げに黒コショウを振り、皿に移し、こんがり揚がったニンニクと唐辛子を添える。

「そういえば、ペペロンチーノって、パスタ・ディ・ディスペラートとも呼ばれるそうだよ。直訳すると、絶望のパスタ。具を入れることすらできないほど貧しくて絶望したのが由来なんだとか」

 デリカシーのないことを言いながら、できあがったペペロンチーノを笑顔で頬張った男とは、そのあともう少しだけ続いた。


「おいしい、やっぱりこれがいちばん」

 マオは私の欲しい言葉をくれる。

「どうやったらこんなにおいしいパスタがつくれるの?」

 無邪気に聞いてきた彼に、私は小さくつぶやく。

「絶望したからかな」

「え?」

 聴こえたのかどうか、彼は私に聞き返してくる。

「うんん、なんでもない」

 それからいくつかの季節が過ぎた頃、私の家に突然、魔女がやってきた。

「彼はあたしのものなの」

 そう言って、別れを強要してきた。

「彼はなんて?」

 私は冷静に努めて問い質す。

「私がいちばんだって」

 魔女は不敵に微笑む。

「そうですか。それで、あなたの夫は?」

 怯むことなく言葉を返す。

「それがなに?」

「あなたにとって彼は何番目なんですか?」

 魔女は苛立ちを隠さず、私を呪った。

「気にくわないねえ」

 魔女の間男をしていたマオは、魔女のことを愛していた。しかし、魔女にとって彼は都合の良い男のうちの一人でしかなかった。


 あれから、マオと会うことはなく、愛した男に振られ、愛さないと思った男を愛し振られ、私は絶望の淵に突き落とされた。

 そしてわかったことがある。

 愛した男に振られることなんて、呪いをかけられる前から一緒だったのではないか。呪われていようといまいと、どうせ別れる運命だったのだ。そう思うと少し心が軽くなった。

 愛が等しいことなんてない。計りに乗せたらどちらかのほうが重く傾くだろうし、その天秤がそのままを保つこともない。軽くなったり、重くなったり、お互いの気持ちを試して、天秤にかけながら愛を育んでいく。

 私は几帳面に、いつも均等でいようとして、それでうまくいかなかったのだ。私に必要だったのは、傾ける勇気。傾いたらバランスを取ろうとする根気。

 絶望の淵から這い上がった私は、魔女の元へ向かう。

 魔女はパスタをつくっている最中だった。

「私を呪いにきたのかい?」

 目を向けることなく訊ねてくる彼女の背中に私は頭を下げる。

「ありがとう」

 魔女は麺を茹でていたその手を止める。

「…なんだって?」

 彼女はこちらを振り返る。

「感謝したの。あなたが呪いをかけてくれたから、私は絶望を呪いのせいにすることができた」

「やっぱり、気に食わないねえ」

 顔を歪めたあと、再び背を向ける。

「それで救われたのだと思う。だから、ありがとう」

「私に感謝するなんて、バカな女だ」

 火をつけたフライパンからニンニクと唐辛子を取りだす。

「マオを自由にしてあげてください」

「おまえなんかにゃやんないよ」

 茹であがった麺をフライパンに移し、ソースと絡ませていく。

「私の元に来てほしいとは思っていません」

 黙ったまま調理を続ける。

「私はあなたとは同じにならない」

 魔女は、出来上がったペペロンチーノを皿に移し、こちらへ差しだしながら呪文を唱える。

「気にくわないねえ」

 絶望のパスタから湯気が立つ。


 魔女の夫は魔女を愛していなかった。他に愛する女がいた。しかし、夫は魔女を大切にした。魔女をいちばんに優先した。

 それでも、愛することだけはなかった。

 子どもが出来たら変わるかも、そう思った魔女は狙いを定めて事に及び、すぐに身籠った。

 それでも、男は変わらなかった。

 子どもが生まれてからも、育っていっても、変わらず、妻と子を優先し、大切にし、優しく振舞う。だが、愛の言葉を口にすることだけはない。

 魔女は男を恨むこともできなかった。毒入りのパスタでも振るまえたらどれほどよかっただろう。それで共に果てることができたら、そんな想いでただただペペロンチーノをつくった。小さな小さな抵抗として。それが伝わることはなく、夫はおいしそうに顔をほころばせ、平らげた。

 そうして、魔女は絶望した。


 出来立てのペペロンチーノを頬張り、マオは言う。

「恨んだりしない?」

 疑うことを知らない澄んだ瞳で見つめてくる彼に優しく返す。

「恨んだりしないよ」

 恨んでも、羨んでも、人生良くなることなんてないのはわかってる。わかっていても、それでも、この先、また恨んだり、羨んだりすることもあるだろう。

 その度に私は、ペペロンチーノをつくって、口にして、絶望も、羨望も、呑み込んで、味わい尽くすのだ。

 そう思うとやっていける気がする。

 絶望のパスタは今日もおいしく出来たようだ。

 彼が嬉しそうに食べ進めるのを見て、私もフォークをくるくる回し、スパゲッティを巻き取り、口に入れる。

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