【小説】冷やし中華が始まりません
「今日もノーゲスか」
空っぽの客席を見て、恭英はため息をつく。
季節は夏だというのに、冷房の効きすぎた空間はひんやりとして肌寒い。
店を始めて、はや四か月。早々は、ご祝儀的な賑わいを見せたが、それも落ち着き、客足はまばらになった。
恭英は動いていないくせに疲れた身体を動かして、店を閉める準備を始める。
名古屋市新栄。名古屋有数の繁華街である栄の東に位置するこの場所は、ファッションビルが建ち並ぶ商業地から少し東にずれており、人出は少し減るように感じる。
ビジネス街でもあり、住宅街でもあり、歓楽街でもあるこの街は、外国系の店も多く、外国人の居住者も多いため、その雰囲気は独特である。
若者の多い栄と違い、流行に左右されづらく、名前は新栄なのに、古めかしい、長く居を構える飲食店がけっこうある。
そのぶん、癖の強い店主も多いのはご愛嬌で、恭英も店を出す前から飲み歩いていたのだが、喧嘩した記憶も数知れず。好き嫌いは分かれる気がする。
ドアを開けると、そこは賑わっていた。
「あ、やっちゃん、いらっしゃい」
入ってきた恭英を見て、妙子が元気よく迎えてくれる。
カウンター席から手を振る常連たちと挨拶を交わし、空いた席へ腰かける。
店に入ってすぐにカウンターが並び、奥に1つだけテーブル席があるこの店は、キッチンバーを銘打って、食事もしっかり提供している。
「ビールでいい?」
おしぼりを渡しながら尋ねてくる彼女に向かって首を縦に振り、煙草に火をつける。一息ついて、常連の投げかけに相槌をうちながら、おしぼりが熱いうちに目に押し当てた。
「気持ち良さそう」
妙子が笑いながらビールを差しだす。
受け取り口をつけ、グビ、グビ、グビ、と喉を鳴らす。
常連たちが帰り、さきほどまでと打って変わって落ち着いて、BGMが店内に響いている。
「相変わらず賑わってるね」
恭英は笑いながら言う。
「そうでもないよ」
眉を下げて妙子が返す。
飲食の先輩としてこの街で戦う彼女は、一応この店の客である恭英に向かって、なんでも明け透けに喋ってくれる。
「ホントはSNSとかやった方がいいんだろうけど、うまく使えそうな気がしないし、続けられる気がしない。あ、そういえば、あれ、どうなったの、冷やし中華」
ビールを注ぎ、グラスを返しながら、彼女は話題を変える。
恭英が店をオープンしてすぐ、妙子が飲みに来てくれたときにいた客が、冷やし中華が食べたい、と言い出したのだ。
それから、何度も試作品をつくったのだが、なかなか望むようなものが作れず、未だメニューに加わっていない。
「なんか、こう、納得できなくって」
「あるよね、そういうこと」
口ではそう言っているが、きっとそんなことない。恭英はそう思った。
本人はSNSをしていないが、妙子がつくった料理はグルメ投稿サイトでは良いレビューがいくつも並んでいる。見栄えもよく、それを目当てにくる一見客だっている。
それを伝えると、にこやかに笑って恭英に言う。
「それは素直に嬉しいね。それで知ってもらえるのも嬉しいし。でも、やっぱり自分じゃできないかなあ」
発信すればもっと注目を集められるだろうに。勿体ない。もし、自分が彼女の立場ならガンガン宣伝して、集客できるのに。恭英は消極的な妙子の姿勢に残念な気持ちを覚えた。
次の日。恭英は昼から店にいた。冷やし中華の試作品をつくるためだ。
ちなみに、今現在、この店の人気ナンバーワンはピラフだ。生米をたっぷりのバターで炒め、自家製のスープで仕上げる。具材はたまねぎとソーセージのみ。最後に軽くパプリカパウダーをふりかけ完成。恭英が好きな喫茶店のそれを真似して、試作を重ねて完成した、自他ともに認める看板メニューである。
それに負けるとも劣らない、そんなものをつくりたい。
この地域の冷やし中華といえば、具材はきゅうりに、ハムに、錦糸たまご、ときにトマトを乗せたり、かいわれ大根を乗せたり、レタスを乗せる家もある。スープは酢醤油で、酸味を感じ、好みが分かれるが、まろやかにするためマヨネーズをかけるのも定番だ。
実をいうと、恭英はこの、酸っぱい冷やし中華が苦手だった。口に入れた途端にむせてしまい、まともに食べられた記憶がないのだ。
だから、この店で出すものは、酸味は控えめだけど、食欲をそそるようなものにしたい。
それもそうだ。定番というのはきっと、紆余曲折あって、今の形になっているのだろう。そこには先人たちの失敗と苦労が積み重なっているのだ。そう簡単に覆せるようなものではない。
結局そのまま、営業時間になるが、早い時間には滅多に客はこない。そのまま試作に没頭して数時間、出来上がったものを口に運んで咀嚼していると、店のドアが開く。
「あ、まだ準備中だった?」
妙子が顔を覗かせる。
「あ、いや、やってる。どうぞ」
皿と箸を置き、いつのまにか客席にまで広がっていた具材を急いでキッチンに移す。
「冷やし中華、つくってたんだ」
「やっぱり普通がいちばんなのかなあ」
「シーバスで」
片づけをしている間に、自分でおしぼりを取り出した彼女は、手を拭いながら注文を告げる。
「うん、ソーダね」
恭英の言葉に彼女は頷く。
グラスに氷を入れ、シーバスリーガル12年を注ぎ、炭酸水を加え、軽く撹拌して提供する。
「一杯どうぞ、乾杯しよう」
お言葉に甘えて、ビールを注ぐ。そして、彼女とグラスを重ねる。
「冷やし中華は、まだ頼めないんだっけ?」
食事メニューを見ながらつぶやく。
「ん、試食してみる?」
「ぜひぜひ」
小さな皿に盛りつけをし、スープをかけて、彼女の前に差し出す。
「こんな感じ」
「んん、おいしそ、いただきます」
手を合わせ、箸を取り、モグモグと黙って食べ進める。そのまま、一度も箸を置くことなく、皿を空にした。
「ふー、ごちそうさまでした」
「どう、正直」
「おいしかったよ。全然、お店に出して良いレベル」
「普通すぎない?」
「そうねえ、うちはもっと酸っぱかったから、インパクトにはかけるけど、優しいから誰でも食べられそうな気はするかな」
「スープを魚介出しにするとか、マヨネーズをタルタルにするとか、いろいろ試したんだけど、なんかしっくりこなくて」
「それはそれでおいしそう」
「おれはみんなに美味しいって言ってほしいから」
皿を回収し、シンクへ移しながら恭英はそう口にする。
「そっか。それはなかなか、難しいね」
「妙子さんは?料理つくるとき、どんなこと考えてる?」
「えー、そんな深く考えてないよ。まあ、この味つけはその人が好きそうだなあとか、こういうのつくったらあの人は食べてくれるかなあとか?でも、よっぽどまずいものじゃなければ文句は言われないと思うよ」
ニコニコとそう言う妙子の言葉が頭の中にモヤモヤと広がり霧がかって、恭英の心を曇らせていく。
「私もやっちゃん見習わないとね」
褒められたのに素直に受け取れない自分が嫌だ。
そのあとも気分が晴れることはなかったが、なんとか上っ面は取り繕って、その日の営業を終え、日課としているレビューチェックを始める。
と言っても、最初に友人たちが応援に良いレビューをくれて以来、一度も書かれたことはなかったのだが。
だが、その日、新着が一件あった。
驚き、胸を躍らせ、レビューを開く。
―星2つ。ピラフがベタベタしてあんまりおいしくなかった。なんか、赤いのかかってたので辛いと思ったら辛くなかった―
いや、パプリカだから、辛いわけないだろう。ベタベタって、しっとりめにつくってはいるけど、そんな風に仕上げたことなんて一度もない。
誰だ?最近、ピラフをつくったのは…いや、犯人探しをしても仕方ない、けど、その場ではみんなうまいうまいって食べてたじゃないか。
いや、人のせいにしてはいけない。もしかしたら、本当にうまく作れなかったのかもしれないじゃないか。いや、でも、そんな記憶はないし。
単に口に合わなかっただけでレビューするのか?レビューするほど不味いって思ったなんて。好みで済ませられるのか?みんな、口では良いこと言うけど、本当はそんなこと思ってないのではないか。
いろんな考えが頭を駆け巡る。
恭英はショックでカウンター席から動けなかった。
あれだけ自信があったピラフに、今は全然自信が持てない。
飲み残しのぬるくなったビールを一気に飲み込む。
そのまま、テーブルに突っ伏す。考えないようにしようと思えば思うほど、頭が活性化して、止まらない。止まらないどころか、思考がどんどん加速していき、オーバーヒート。
気づいたら、朝になっていた。そのままテーブルで寝ていた。身体が軋む。
「腹減った」
なにか作ろうとキッチンに立つ。
さっぱりしたものが良いな。具材は…昨日つくりかけていた冷やし中華の材料がある。
麺を湯がき、水でしめ、残りの具材をのせ、冷蔵庫に冷やした醤油だれをかけ、立ったままそれを食べる。
「うま」
思わず言葉に出た。
そのまま一気に、完食。
後日。
「冷やし中華、始めたんだって?」
妙子の店に飲みに来ていた恭英はすっきりした顔をしていた。
「うん、この間、食べてもらったやつ。普通だけど、おいしいって言ってもらえたから」
うんうん、と頷きながら、妙子はビールを注ぐ。
「夏はもう終わっちゃうけど、今年は残暑が厳しそうだから、しばらくはメニューに並んでると思う」
「私、年中食べたい派。味噌煮込みうどんも夏にも食べるもん」
満面の笑みでそう告げる妙子。
「味噌煮込みうどんも始めるかな」
「麺、固いやつで」
隣りの常連が、“おれ、固いと嚙みきれないから柔らかいやつも用意しといて”と言うので、「とりあえず、たまにはうちにも飲みにきてよ」と言うと、周りがそうだそうだと乗っかり、ひと盛りあがり。
居心地の良さを感じながら、恭英はビールを飲み進める。