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【小説】おぼれるふたり

―恋はするものじゃなくて、落ちるものだ―という書き出しで始まる恋愛小説を読んだことがある。とすれば、私は今、恋に落ちているのだろうか。

 彼は、私が働くコーヒーショップの常連客だった。平日の昼間にラフな服装でやってきて、季節に関係なく、ホットのコーヒーを注文する。そして、テーブルにパソコンを広げ、1~2時間ほど画面に向かい、一仕事終えると、席を立ち、コーヒーをお代わりしに、カウンターへやってくる。コーヒーを待つあいだに、伸びをし、身体をほぐし、注いだコーヒーを受け取ると、テーブルへ戻る。そこから小一時間、またパソコンとにらめっこをしたあと、本を取り出し、読書に耽る。夕日が差し込むのが合図かのように、本を閉じ、パソコンを片づけ、店をあとにする。そのルーティンを週に2~3回。

 注文の際、天気や服装の話題など振ってみたこともあるのだが、話しかけられた彼は、ぎこちなく一言二言返事をするだけで、そそくさと立ち去ってしまう。

 このコーヒーショップでは、フレンドリーに話す常連客が多いが、当然、話しかけられたくない人もいるだろう。それ以降、最小限の会話に努めた。

 そんな彼と、面と向かって食事を共にしているのだ。人生、なにが起こるかわからない。

 この日、私たちは、仕事終わりに食事にきていた。数えることもしなくなるほどに数を重ねた、ふたりでの食事だ。彼も私も、次の日が休みでないと、お酒を飲まないので、ふたりとも飲む、という日は珍しいのだが、今日はその数少ない日だった。彼は、お酒の力を借りたからか、軽快におしゃべりを進めていく。

「かごめかごめ、ってあるじゃないですか?あれ、歌えますか?」

 彼は、喋りはじめると取り留めなく話題が変わる。

「かーごーめーかーごーめー♪かーごのなーかのとーりーは―♪いーつーいーつーでーやーるー♪よーあーけーのばーんーにー♪つーるととかーめがすーべーたー♪うしろのしょうめんだーれ♪」

 はじめは戸惑ったが、今では私も冗談を返せるくらいにはなった。

「あれ、僕ずっと、うしろの少年だーれ?だと思ってたんですよね。だから、みんなでかごめかごめしてるとき、何で少年って決めつけるんだろう、少女かもしれないのに、ってずっと思ってたんです。真ん中にいる子はエスパーなのかと」

 うしろに目がついてるのかもしれないですよ、と私が返すと、彼は少し声を大きくして答える。

「まさか、真ん中が妖怪!?その可能性もあるのか!あ、あと、いーついーつ出会うだと思ってた。籠の中の鳥はいつ出会うか、って、なんとなく想像できて。でも、これはなんとなく、合ってるんですかね?それで、つーるとかーめがすーべーたー、に関してはすべたってなにかわからないけど、そういう言葉だと思ってて」

 私が笑い声で返すと、彼は恥ずかしそうにしたあと、すぐに別の話題をしゃべり始めた。

 彼が店に通いだして、一年か、もしかしたら、二年近く経ったある日、私は何気なく、彼にしゃべりかけた。彼が読んでいる本が、谷崎潤一郎の細雪で、ちょうど私も読んでいたのだ。

 私はしまった、と思い、微笑みとともにカップを差し出した。彼はカップを受け取りながら言った。

「若いのにこんなの読むなんて、珍しいですね」

 後々わかるのだが、彼は私より年下だった。そのときのことを話題にすると、彼は、私の背丈と童顔が悪いのだと、嬉しそうな悪い顔をして責任を押しつけてくる。

 それ以来、ぎこちなさはなくなった。

 一度、「ホット、お好きなんですね」と何気なく言葉をかけると、

「甘いのが苦手なだけなんです」

 と、返してきた。

 コーヒーが好きなのかたずねようとしたのに、ホットを飲んでいることに対して言及してしまった言葉足らずな私の意図を汲んでくれたのか、それともたまたまなのか、不思議と会話が成立した。内心驚き、それ以来、彼に興味を持ったのが、私のはじまりだったのかもしれない。

 ふたりの主な会話は、今読んでいる本だとか、おすすめの本だとか。私は話題のものや、有名どころを読む程度だったが、彼は、ミステリーから恋愛もの、時代ものに古典文学まで、好き嫌いなく読むらしい。

 すごいですね、と感嘆を述べると、

「ただ単に雑食なだけですよ、雑食だからってなにもすごくなくって。ほら、言うでしょう、肉食や草食より、雑食だと、その、排泄物は臭くなるって、あ、すいません、飲食店でこんなこと、その、いろいろ読んだって、でてくるものはたいしたことない、ってことが言いたくて」

 と一人で慌てて、一人で言い訳をしていた。

 私たちは食事を終え、店を出て歩きはじめた。

「自転車って“押す”だと思いますか?引くものだと思いますか?」

 乗ってきた自転車を押しながら?引きながら?彼はたずねてきた。

 私が「え、どっちでしょう、私は引く、だと思ってましたけど」と答えると、彼は言葉を続ける。

「でも、今これ、体感としては押してる気がしてならないんですよ」

 数えきれないほどの食事デート。ネオンが灯る歓楽街。そして彼は、明日、私は休みだと知っている。その上で自転車でくるということは、今日は帰るんだ、という意思を現しているのだろうか。

「押すっていうのは、こう、後ろから力を加えて前に出す感じですよね。引くってのは、前からこう、引っ張るっていうのが引くだから、理屈としても押す、が正しいと思うんです。あ、でも、そう、引くも間違ってはないと思うんですけど」

 私は恋に落ちてる、のだと思う。彼もまんざらでもない、と思う。でも、一度目も二度目も、これまで何度も彼は意味のわからない、もしかしたら意味のない会話のあと、ぎこちないさよならをした。

「あー、でも、これ、今、押してる部分はハンドルより前だけで、これよりうしろは引いてることになるんですかね?ってことは、全体としては引いてる割合のほうが多いから、引いてる、のほうが正しいのかもしれない」

 自惚れなのだろうか。いや、彼だって、期待する気持ちもあるだろうに、あと一言を口にすることはなく、またの再会を約束する。今日も同じように終わるのだろうか。

 友人にそのことを告げると、“意気地なし”だの“小心者”だの言い、挙句、“妻帯者なんじゃないの?”と、彼女のなかで彼の物語が様々展開していった。

 ただ、私は彼が意気地をなくしたわけも知っている。それなのに、彼からの一押しを期待しているズルい女なのである。

 二度目の食事をしたときに彼は、かつて恋人が失踪したことを告白してきた。

 職場の同僚で、交際して二年。結婚を考えだした矢先のことだった。ある日、突然、いなくなった。会社に姿を現さず、連絡もつながらない。部屋は引き払われ、実家の連絡先も知らない。同僚たちも、行方を知るものはおらず、交際を秘密にしていたため、詮索することも憚られた。

「人って、突然いなくなるんですよ」

 彼は痛々しい微笑みを浮かべながら、お酒を煽る。

 その後、会社を辞め、フリーランスで働き始めた頃から、彼はコーヒーショップに通いはじめたらしい。パソコン一つで仕事は完結するが、家にいると鬱蒼としてしまうため、外で仕事をしていたらしい。

 同情、哀れみ、共感、どんな気持ちでその告白を聞いたのか、覚えてはいないけれど、それから、優しく彼の話を聞くようになったのは、打算がないとは言い切れない。そんなズルさに心痛めつつ、それでも、彼との逢瀬を重ねた。

 傷を癒してくれるのは、時の流れだけなのだと、私は知っているから。

 歓楽街の喧騒に飲まれ歩いていると、いつの間にか、会話が途切れていた。視界には暗闇が迫っており、賑々しい街の端が近づいていた。

 彼は“押して”いた自転車を止める。

 私は「どうしました?」と彼にたずねる。

「あの、もう少し、付き合ってもらえませんか。その、もう少し、酒におぼれたい、そんな気分で」

 彼はぎこちない態度で言葉を絞りだした。

 私は思わず笑い声をこぼし、彼も照れ笑いを浮かべた。

 「名案です」と告げ、彼の自転車を奪い、押していく。

 私たちはまだ、もう少しだけおぼれてみるのだ。

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