【小説】春というにはまだ早い
「温かくなってきたねえ。そろそろ春かな?」
「いや、まだわからんよー」
縁側に腰掛け、お茶を啜りながら答えるおじいちゃんに甘えながら孫が尋ねます。
「なんで?」
孫は首を傾げます。
「この時期は、三寒四温といってね、温かいなと思って油断したら、まだ寒さがぶり返してくるんだ。春というにはまだ早い」
それから何日かして。おじいちゃんのいうとおり、寒い日が戻り、そして、また温かくなりました。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
庭で遊んでいた孫は、軒下で佇むおじいちゃんのもとに駆け寄り、言いました。
「梅が咲いたよ!もう春がきたかな?」
おじいちゃんは、ホッホッホッ、と笑い声をあげたあと答えます。
「いや、まだわからんよー」
孫は目を丸くして尋ねます。
「なんで?」
おじいちゃんは、遠くに植わった梅の木を見つめて返します。
「あれは蝋梅と言ってね、まだ寒さが残るなかに咲く、早咲きの梅なんだ。春というにはまだ早い。山笑う頃、春は来る」
おじいちゃんのいうとおり。また何日か寒い日が訪れ、温かさを取り戻したある日。
「おじいちゃん、おじいちゃん!」
いつものようにおじいちゃんに尋ねる孫。
「風が温かいよ、もう春だよね?」
孫の頭を撫でながら、おじいちゃんは答えます。
「まだわからんよー」
孫は頬を膨らせます。
「なんで?」
「この時期にはね、春一番という風が吹くんだ」
「それが吹いたら春なの?」
「いや、そのあとはまた寒さが戻ってきてね、春二番、春三番が吹いて、だんだん春が近づいてくるんだ。春というにはまだ早い。風光る頃、春はやってくるよ」
おじいちゃんのいうとおり。春一番が吹き、寒さと温かさを繰り返し。何度か問答を繰り返したある日。
孫が尋ねます。
「桜の蕾が芽吹いたよ。春がきたね?」
「いや、まだわからんよー」
「なんで?もうすぐ咲くよ?きっともう春だよ」
「桜はね、春だけに咲くわけじゃないんだよ。秋や冬に咲く桜だってあるんだ」
「でも、ソメイヨシノだよ?」
「咲くまではわからないよ。春というにはまだ早い。世の中は三日見ぬ間の桜かな」
おじいちゃんのいうとおり、何度も桜が咲き、桜が散り、季節が過ぎたある日。
学校の帰り道、孫はおじいちゃんの元を訪ねます。
「おじいちゃん、私、春がきたかも」
「いや、まだわからんよー」
「なんで?こんなに胸がときめいているのに」
「若いうちは恋に恋するものさ。でも、それでいい。そのうち、本当の春がやってくるんだよ。春というにはまだ早い」
「わからないよ」
「ホッホッホっ。すまんのう、娘と春はくれそうでくれぬ、いや、孫と春か。ホッホッホ」
おじいちゃんのいうとおり、何度かの出会いと別れを重ね、また何度かの季節が巡り。
街に出た孫は、久方ぶりにおじいちゃんを訪ねます。
「おじいちゃん、私、この世の春だよ」
「いや、まだわからんよー」
「なんで?なんでそんなこというの?」
「長く生きているとね、いろんなことがあるもんだ。春の世の夢。調子に乗ってはいけないよ。春というのはまだ早い。」
おじいちゃんのいうとおり、うまくいくことばかりでなく。それどころか、なにもかもうまくいかなかず、疲れ果てた孫は故郷に帰り、おじいちゃんを訪ねます。
「おじいちゃん、私、春を鬻いだの。もうダメかも」
「いや、まだわからんよ」
「わからなくないよ。駆け落ち同然で家飛び出して、挙句がこの様だよ。お父さんにもお母さんにも、会わせる顔がないよ」
「おじいちゃんには会いに来てくれたじゃないか」
「それは、」
「溶けない雪はない。冬きたりなば春遠からじ、だよ。春は必ずやってくる」
雪が溶け、梅が咲き、春一番が吹き、桜が咲き、気づけばまた、この季節がやってきて。
孫はおじいちゃんに尋ねます。
「おじいちゃん、今日は春分の日だよ。暑さ寒さも彼岸まで。彼岸が明ければ春がくるかな?。いや、まだわかんないか。おじいちゃん、春はいつかな。おじいちゃんは気が長すぎだよ。どれだけ待ってたの?年寄りの達者、春の雪だよ。でも、今ならわかる気がする。春を待ってるこのときが、なにより幸せなのかも」
目をつむり、手を合わせ、言葉をかける。
うららかなひばりの声がこだまして、今年も春とゆう名の季節が訪れる。